2015年7月10日金曜日

神功皇后の「三韓征伐」

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 ≪神功皇后の「三韓征伐」
 ≪神功皇后の「三韓征伐」

 種子島と辰韓に関連して絶対に見落としてはいけないのは、

 「1世紀の半島には辰韓や馬韓のように

 「韓」と呼ばれる国々はなかった」という事実である。

 それは西暦32~92年に死んだ後漢の班固(ハンコ)が書いた

 『漢書地理志』が証明する。

 その「燕(エン)地」条には・楽浪(ラクロウ)・朝鮮・倭人だけしかなく、

 韓のつく国も地域も記録されていない。

 その「倭」の記事には
  
 「楽浪の海中に倭人あり、

  百余国に分かれて、時おり朝貢してくる」と書いてある。

 この楽浪を在来式に北朝鮮だと妄想していると、

 その東西の海に百余国もある倭人の国があったことになり、

 アトランチスのように海底に沈んだということにでもしないと、

 辻褄(つじつま)が合わないが、

 これは班固の楽浪が半島全域を指すことを証明しているのだから、

 半島の東南海中に倭人の国があるという記事だったことは間違いない。

 1世紀人の班固が、

 当時の半島と列島の実態をありのまま記録したもので、

 想像でデッチ上げた記事ではない。

 実際に当時の半島には、

 まだ辰韓も馬韓も弁韓もなかったのである。

 ではそれはどこにあったか?。

 『魏略(ギりゃく)』は

 辰韓の鉄産地名を「タンナ」と読める当て字で補充している。

 これは種子・丹・淡の種子島に合う。

 どこからみても鉄を出す辰韓は明かに種子島のことだった。

 種子島が辰巳ガ島で、

 その辰が豊玉姫の変身伝説や竜宮伝説を

 生んだことも繰り返しお話しした。

 またカラと読む韓国(カラぐに)が姶良(カラぐに)郡

 (今の鹿児島県姶良(あいら)郡)のことだったことも、

 霧島山塊最高峰が

 韓国見岳(カラぐにみだけ)の名を

 今に残す事実などでご承知の通りである。

 またB.C.E.194年に、

 衛満(エイマン)にダマされた箕子(キし)朝鮮王の準が、

 「海を渡って南に逃げた先」が韓だった。

 半島から南に海を渡ればそこには九州しかない。

 韓国はどこからみても九州の一部にあったのである。

 このことは「四神」から生まれた国名も証明している。

 東が青竜で、青はオオ=淡、竜は辰。

 種子島にピッタリ合う。

 これと反対側を意味する

 西は白虎で、

 大隅語のシラは鹿児島語のヒラ、

 開聞(ヒラキキ)・枚聞(ヒラキキ)と書く「ヒラギッ」が、

 種子島と対照的な西の位置にチャンとある。

 ところが後世の半島の国の位置は、

 逆転してしまって東がシラギになる。

 そして西は四神とは無関係な百済(パクチェ)になる。

 しかしこれも「地名移動」の原則に照らしてみると不思議はない。

 百済(パクチェ)はご存知のとおり、もと馬韓であり、馬の国であった。
 馬の国は馬津国(マツラ)=松浦(マツラ)である。
 その東隣は福岡県である。ここは「白日の国」。
 これを「シラジッ」の国と読むとシラギの沖縄発音「シラジ」になる。

 この「西に馬の国・東にシラギの国」が、
 そのまま半島南部にまで拡大したのが、
 3世紀の半島韓国だったことは疑問の余地がない。

 それはその小国群の名が、
 ことごとく日本語の名であることでも、
 また充分、
 立証されているのである。

 ではそのヒラ・シラの国はどこから来たのであろう?。

 それがテラの語源「平良(ヒラら)=ヒラ国(ら)」である。

 宮古島から南種子島の平山へ、
 それが島内に拡大したあと種子島と分離して、薩摩富士・開聞岳を象徴とする枚聞に移った。

 以後シラシジ・シラギとして拡大する。

 『魏書東夷・韓章』では、半島シラギは「辰韓」である。

 大移動した人々が種子島出身で、

 白日・新羅の国名が後世のものだとわかる。

 また本来は西の国だったのが東に変わっている。

 これは明かに争いがあって辰韓が敗れたことを意味している。

 『記・紀』が書く壹與=神功皇后の「三韓征伐」は

 史実を記録したものだったのである。

 但しそれは従来の錯覚のような

 「日本軍による朝鮮侵略」ではない。

 その時の三韓は鹿児島県下にあった。

 その時の新羅は開聞(ヒラギッ)で、

 王が籠坂(カゴサカ)王=鹿児・繹迦(シヤカ)の王。

 もう一人が忍熊(オシクマ)王=大隅(百済(ホスミ))と球磨(クマ)

 高麗(クマ))の王の「三韓」の王だった。

 いうまでもなくこれは壹與と位宮が

 卑弥呼政権打倒に攻め込んだ時のもので、

 その時13才の壹與は卑弥呼を継ぐ仏教(繹迦)女王になった。

 もちろん鹿児・繹迦王の地位を継いで開聞=新羅の王になったのだから、

 その後、北部九州に遠征して福岡に移ったために、

 そこが開聞=白日=新羅と呼ばれたのである。

 その結果、半島側にある辰韓も、

 当然、ヒラギ・シラギと呼ばれることになったのだった。

 これで「新羅とは後世の植民地だった」

 という重要な史実が確認できた。

 それは壹與を新羅の始祖・赫居世と書く記録も事実だと裏書きする。

 この事実は新羅を半島だけの国家としてきた間違いを指摘している。

 新羅と百済は永い間、倭の地方自治体だったのだから、

 その真の支配者は倭国王=天皇で、

 半島にいた王は今なら府県知事にすぎなかったのである。

 『三国史記』を読む際は、

 この点に神経を配って、

 王と書かれた人物は天皇か知事か明確に区別する研究を

 忘れてはならない。

 またこれで『隋書』の、

 「新羅・百済は音、倭を以て大国と為(な)す」の大国とは、

 大=支配者のことで、宗主国という意味だったと確認できた。

 このことはさらに、

 大化改新(乙巳の変)の真相まで

 真実の光で眩(まばゆ)いほどに照らし出す。

 天智天皇=天開別(チヌ・ハラキ)=

 金春秋(チヌ・ハラキ)は新羅知事だったのであり、

 その戦いは内戦だった。

 もちろん唐が出兵して介入したことは事実だが、

 これも幕末に徳川幕府がフランスの援助をうけ、

 薩摩がイギリスと組んだが、

 だからといって、

 誰も、維新戦争を国際戦争だと思わないのと同じで、

 大化の大阪戦争(乙巳の変)の真相は、

 その規模の大小にかかわらず、

 天皇家一族の内紛にすぎなかった。

 この意味で政権紛争として書く

 『日本書紀』の「大化改新(乙巳の変)」像は、

 本質的には妥当なものだ。

 しかし天武天皇が小細工をし過ぎたために、

 肝心な真相が消されてしまったのである。

 ※出典:加治木義博
     「大学講義録33:15~18頁」

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