2012年3月31日土曜日

マレー語に関する章(45)ウワイをめぐる言語学的背景



 《ウワイをめぐる言語学的背景
 「ウワイをめぐる言語学的背景

 これで現実的に、

 なぜ言語復元という思索技術が、古代史解明にとって

 「致命的に」大切なのか…かなり強く、ご理解いただけたと思う。

 だがまだまだこの例は、その入口ていどのものに過ぎない。

 しかし第一の原理はこれで充分おわかりになった。

 それは「原文が書かれたときの発音で読む」という簡単なことである。

 この『魏書倭人章』の

 「倭」の例は「漢字を当て字した人物」が、はつきり2人の魏人、

 帯方郡使たちだったことがわかっているから、

 漢魏音で読めばいいという、

 実はごく簡単な例だったのである。

 だがしかし実は、それから先が大変なのだということも、

 ここでよく反省してみなければならない。

 それによってインド語にまで遡る、

 「ウワイ」という名詞に到達するまでの、

 東南アジアでの「発音変化」の歴史がわからないと、

 せっかく発音だけわかっても余り効果がなかったということを見逃してはいけない。

 それには、東南アジア語の知識も重要な役割りを果たしているのである。

 それを簡単にお話しすると、

 インドの「ウパイ」は、

 鼻濁音をもった言語地域で「ウバイ」に変わらないと、

 その次の「ウワイ」に変わらないという

 「動かすことのできない法則」があることを、

  記憶しておいて戴きたい。

 ウバイという濁音を特徴にする言語は

 今の「べトナム語」に代表されるアンナメーズ語族である。

 それがさらに極端な鼻をつまんだ唇音の「ウワイ」に変わるのは、

 マレー半島から台湾に及ぶマレー語族の特徴である。

 ミヤンマーの「ワ人」は、ヴワー(Bur)人とも呼ばれ、

 それがヴワーマ=ビルマ(Burma)という国名にもなっている。

 ミャンマーはこのビルマが「<ビ=ミ>・<ルマ=ヤンマー>」と変化したもので、

 「L音」が「Y音」に変わるのは

 Marseilleをマルセイユと発音するフランス語などと

 同じ訛りである。

 「ワとバ」の訛りと関係のある方言差は台湾の高山族・アミ人が、

 沖縄ではアビと発音されことにも見られる。

 「美の字の発音変化=<ミ>と<ビ>」の関係である。

 このアビも奈良朝には「阿部」になるが、

 その前の四国宇和島では清音で「阿輩」と書かれている。

 これは「ウハイ」に対する隋式の当て字なのである。

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2012年3月30日金曜日

マレー語に関する章(44)読谷・紫合=ギリシャ。広い地名遺跡分布



 《読谷・紫合=ギリシャ
 「読谷・紫合=ギリシャ
 《広い地名遺跡分布
 「広い地名遺跡分布

 史実の天孫降臨が南九州を舞台にしていることは疑いの余地がない。

 その天孫の「天」が「ウチナ=大天」の

 沖縄地域であることもまた周知の事実である。

 そこには釋迦が使ったパーリ語でギリシャを意味する

 「ヨーナ=与那国、与那原」のつく地名が幾つも現存しているが、

 他にも沖縄本島の読谷村は正確には「ユンダン」と発音して、

 やはりマレー語の「ユナン」、

    南中国語の「ユンナン=雲南」の鼻濁音訛り(=ナ=ダ)に過ぎない。

 また沖縄だけでなく、

 ここ兵庫県猪名川には「紫合」と書いて「ユーダ」と読む地名があり、

 これを単純に「ユダ」だと思っている人があるが、

 それはユダヤである前に

 この「ヨーナ」が「与那原・米原」と変化して分布しているのと同じく、

 湯田・湯田中・木綿田・夕田などと様々な当て字で

 南九州から東北地方まで分布している「ユーダ」の内の一つなのである。

 この地名はさらにアラブから北中国語では「ヤバーナ」になり、

 漢字で「野蕃」と書く。

 中国人が台湾の高地人を野蕃人と呼んだのは、

 この点からみて軽蔑してそう呼んだのではなく、

 本来の名詞への正しい当て字だったのである。
 
 この「野蕃」の文字は、

 今の北京語では「イェーメン」と発音して

 アラブ最南端のシバの女王の国名と同じになるが、

 文字のスペルは「ヤマン」になり「八幡」と当て字すると

 「ヤバーナ」とも読めて言語のもつ力を知らされる。

 現在でも日本には全国に三万を越える数の八幡社がある。

 それらは、以上挙げた地名や国名、人種名とともにすべて

 「天孫族=ギリシャ人」が居住していた遺跡なのである。

 (1995.10.29 講演レジメ:加治木義博)

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2012年3月29日木曜日

マレー語に関する章(43)アイヌ文化ははっきりと南方系の特徴をもっている



 《アイヌ文化ははっきりと南方系の特徴をもっている
 「アイヌ文化ははっきりと南方系の特徴をもっている


 民俗学のほうからも少しみてみよう。

 アイヌの人々は今、北海道やサハリンにいるから、

 北方の土着民だと長く信じられてきたが、

 彼らのもつ文化をみると、それが根底からくつがえる。

 何よりもはっきりしているのは、

 本書の冒頭でお話しした

 遮光器土偶のような完全防寒服をもっていなかったということである。

 彼らの青物は「アツシ」と呼ばれる純粋な「和服」である。

 日本の着物の源流なのである。

 それは足の脛(すね)を寒風に露出している。

 北方人のイヌイト(エスキモー)人のようなズボンは愚(おろ)か、

 下ばきさえも使わない。

 その材料も完全に植物繊維製で、毛皮製ではない。

 またその装飾文様もまるで違う。

 頭を包む被(かぶ)りものも、

 沖縄のエイサー踊りに見るインドネシアと共通のものである。

 そして最も極端なのが、履物である。

 イヌイトたちは毛皮製の腿(もも)まであるロング・ブーツをはくが、

 アイヌの人々は絶対にそんな長靴は履かなかった。

 また早くから指摘きれているものに「発火方法」の違いがある。

 石の表面に窪(くぼ)みをつけたものがみつかる。

 これは火を作るときに「火切り杵(きね)」の上部を押さえるものであるから、

 かつてはアイヌ人のものだといわれたが、

 実際はアイヌ人は、

 それより原始的な木に穴をあける「錐(きり)」のような「もみ錐」を使っていて、

 石では押さえない。

 「窪み石石器」を使っていたイヌイト人が去った後へ、

 アイヌ人がきたことがはっきりわかる。

 人類学では彼らは短頭人に属するが、

 それは沖縄の八重山~宮古から始まって薩摩半島~出雲~伊勢と同形である。

 また女性が口の周囲に入れ墨し口琴を鳴らすのは台湾のアミ人と同じだ。

 どれをみてもアイヌ人は南からの人で、

 東北・北海道に住むようになった時期は7世紀以後である。

 それは歴史的にみても、

 天武天皇十一年に越の蝦夷が郡を作った、

 というのに始まって、

 次第に郡や国の数が増えていくのを見てもわかるし、

 やがて8世紀に入って反乱と討伐が始まり、

 9世紀初めの

 坂上田村麻呂の大将軍任命による大掛かりな討伐で

 北海道へ追いやられた経緯、

 またその田村麻呂も、

 その地域長官も、

 たとえば百済王・教俊といった百済系の同族出身の人物であることなど、

 十分にこれまでの検討結果と符合するものばかりである。

 「逃げた倭人=アイヌ婦人」

 自称はアイノ・ウンクル。

 これは「愛の人」と同じ発音と意味になる。

 この「愛」はインド語の「ペマカ=卑弥呼」、

 マレー語の「カシー=観世音=香椎」で、

 鹿児島語の「エ=埃」=埃ノ山陵=可愛山陵や

 吉野ケ里遺跡や継体天皇の藍野陵や

 蘇我稲目などにも結びつき、

 それが蝦夷・毛人と呼ばれてきたことと重なり、

 ギリシャ系インド人と

 台湾の山地居住民との共通性

 (婦人が口の回りに入れ墨をし、

  この写真のような「アイヌ名=ムックルという口琴」を

  三者が皆もっていることなど)と、

 カラフト・アイヌの自称がエムチュウといい、

 その「チュウ」は沖縄語の「人=チュウ」と一致し、

 その容貌も沖縄的で、

 アイヌ伝承と沖縄伝承と

 共通点が多いことなど多くの理由によって、

 どうしても倭国政権と無関係だとは考えられない。

 さらにこの写真のような着物の模様も、

、次章扉の「山字文貝装身具」様式と共通しており、

 熊祭がシンドゥと仏教を折衷したものであり、

 熊毛の名にも関係があることなど、

  挙げればキリがないほどのものが見つかっている。

 「8世紀日本の範囲」

 鹿児島以南と東北地方は外国だった。

 これが天照大神のいう豊葦原瑞穂の国。

 西海道:薩摩・大隈・日向・肥後・肥前・豊後・豊前・筑後・筑前・壱岐・対馬

 南海道:土佐・伊予・阿波・讃岐・淡路

 山陽道:長門・周防・安芸・備後・備中・備前・播磨

 山陰道:石見・出雲・伯耆・隠岐・因幡・但馬・丹後・丹波

 畿内 :山背・摂津・河内・和泉・大和

 東海道:紀伊・志摩・伊勢・伊賀・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・安房・
     上総・下総・常陸

 東山道:近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野

 北陸道:若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡

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2012年3月28日水曜日

マレー語に関する章(42)酷似している東南アジアと古代日本の葬制



 《酷似している東南アジアと古代日本の葬制
 「酷似している東南アジアと古代日本の葬制

 日本列島の場合は恒常的に西風が吹く、

 当然、墓地をつくる方角は居住地の風下にあたる東の地域である。

 奈良高原は大阪平野からみて、

 あらゆる点で集団墓地としての適性を備えていた。

 だから「倭の五王」が大阪に進出する前から、

 そこは河内湖と大阪湾の影響で高温多湿な大阪平野と沿岸の先住民たちの

 集団墓地地域だったのである。

 奈良盆地は高地であるというだけでなく、

 その地理条件によって平均気温が低く涼しい。

 それは死者を高いところに安住させるという宗教思想だけでなく、

 急激な腐敗を防いで、

 死体を鳥獣や昆虫に食べさせて骨だけを残すという、

 日本列島の先住民イナ(委奴・犬・因・印・稲・猪名・伊那=殷・インド)人が、

 中国に古代型帝国を築く前からもっていた、

 超古代インドの知恵による伝統的処理法にも最適の土地だった。

 「タイ北部にある亀墓」

 亀墓は沖縄にある墓として知られているが、同じ形をした墓が、

 タイ北部の人里はなれた場所に点々と見られる。

 中国人華僑たちの墓である。

 沖縄のものも宋の時代に中国から来た36姓と呼ばれる支配者がもちこんだもので、

 近世の沖縄は華僑に侵略され占領されていたのである。

 亀墓のルーツはその形態でわかるようにギリシャのアトレウス古墳の系統

 卑弥呼と血縁のある南中国・呉の孫権らがギリシャ系だったことの傍証。

 烏孫=ウースン=呉孫=大隅とつながり、

 ヤタ烏(カラス)=アレクサンドロスともつながる。

 (『ジンム』参照)

 「タイ土着の山地住民の葬制」

 タイの場合をみても土着の山地住民の葬制は貧しく、

 こんなに布を多く使っているのは珍しい方だが、

 『延喜式』の天皇陵の祭りに布を用いるのと同じ習俗である。

 このタイの2種類の墓の場合も、ともに必ず集落の東北に遠く離れた場所を選んで、

 臭を避ける工夫をしている。

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2012年3月27日火曜日

マレー語に関する章(41)卑弥呼以前には中国にも菩薩号の使用はなかった



卑弥呼以前には中国にも菩薩号の使用はなかった
卑弥呼以前には中国にも菩薩号の使用はなかった

この「愛・埃」を土地の人たちは訛って、どちらも「エ」と発音している。

このエの山陵は「神代(じんだい)三山陵」と呼ばれるものの一つで、

従来は、

本題の「天孫降臨」の主人公・ニニギのミコトの御陵だということになっている。

卑弥呼の死後に女王になった壹與もまた同じ「エ」または「カシー」の名で呼ばれた。

壹與は[神功皇后紀]の後半のモデルであって、

福岡に察られているのが今の「香椎宮」で、昔の「香椎廟」である。

この香椎は「愛」のマレー語のカシーなのだ。

彼女らがいた場所が「カシー院」と呼ばれていたことも、

九州各地に今も何カ所も残っている「……院」という当時からの古地名ですぐわかる。

この「カシーイン」という名詞によって、

さらに彼女らがその死後に仏または神として崇拝され、

その信仰が次第に中国に広がっていったのが

「観世音菩薩」信仰であったことも、

今ではその発生から拡大まで時代別に詳細にわかっている。

「菩薩」という名詞は、

従来はインド語の「ボダイ・サットヴァ」の省略だろうとされてきたが、

「菩」の菩は「ホまたはプ」で、意味は穂・豊・百など南西諸島を意味する「ホ」であり、

「薩」も薩摩の国の「サツ」に一致するのである。

これはやはり地名を並べた名乗りなのであって、

「日の薩摩のカシー院姫」という意味なのだ。

それは「カシー」のあとに「黄国=キヤ」をつけて

「カシ・キヤ=黄の国のカシー」姫という

推古天皇の名乗りにしたのと同様のものである。

中国では現在も観世音菩薩を「南海古仏」と呼んでいる。

これは中国の南の海の国の仏という意味以外には考えられないし、

またその南海の観音の聖地を「普陀落(フダラ)」と呼ぶが、

これも種子ガ島の古代国名「百済=ホダラ」を沖縄発音で「フダラ」と発音したものに一致する。

後世に栃木の日光を「二荒(フタラ)山」と呼んだのも同じ信仰に基づいているから、

それが日本の南西諸島を指していたことは疑いの余地がない。

また菩薩号の使用は後世のもので、卑弥呼当時以前には中国にも記録がない。

そしてその鹿児島県では今も、

「観音詣で」のことを「ヒメコさあ=卑弥呼様」に行くという。

「観世音菩薩」とは「卑弥呼」だと、今だに、はっきり伝えているのである。

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2012年3月26日月曜日

マレー語に関する章(40)木花開耶姫はなぜ神話化したのか?


木花開耶姫はなぜ神話化したのか?
木花開耶姫はなぜ神話化したのか?

次はそれらの名乗りが、さらに新しい謎を解いて、

当時の支配体制の姿を浮き彫りにするという事実をご覧いただこう。

繰返しご注意いただきたいのは、

これまでお話ししてきた

十三・三津屋・木川といった小さい町村ていどの地域の名を

彼女らの全領地だと思ってはならないという点である。

推古天皇は天皇としては斉明天皇の別名にすぎないが、

その実体は連邦の女帝で倭国女王だったのだから、

「豊御」は十三にも合うが、豊日にも合う。

これは明らかに豊日国=豊島郡全体を指している、といったことなどである。

では十三は何なのか?

領土の名とそこを治める役所の名は同じだから、それは豊日国の役場や、

豊日女王の宮のある場所だ。

十三は小国の都心の名だったのである。

同じようにみると、三津屋は「三の国=三之国」だから隣接する三島郡。

木川は大阪南部から和歌山県にかけての「チヌ国・キノ国」の役所も含むし、

また隣接した「三国」には、

高句麗・百済・新羅の三韓三国を管理管轄する役所があったとみるべきである。

もちろんこれだけで倭国連邦の領土全部は表現できない。

倭の五王でさえ、200以上の小国を治めていた。

それをすべて名乗りに入れることは不可能なので、

代表的な国名だけを身近なものから大きさ順に並べている。

それと同じ型式だから、彼女たちの名乗りでも、

彼女たちが「どこに住んでいたか」がわかるのである。

それが「豊日の天皇=孝徳」の都に近い十三だったのだ。

「言語復原史学」の働きがおわかりいただけただろうか。

その斉明天皇の宮居に隣接して、

チノ・イラツメ・別名・木花開耶姫が住んでいたのが、

今の木川町だった。

とすれば、

これまで『記・紀』の

『日向神話』と呼ばれていたものに登場する木花開耶姫は、

いったいどういうことになるのだろう……。

この間題は、この本の最初にふれた「日本人は宇宙人か?」

という疑問に直結した答えになる可能性がある。

なぜならその『日向神話』では、

この健闘の主人公『天孫降臨』のニニギのミコトの夫人こそ、

この木花開耶姫なのだからである。

彼女は日向の吾田の長屋というところで

ニニギのミコトと結婚したことになっている。

それは同名異人で、他に別の木花開耶姫が存在したのか。

それとも逆に、

この7世紀の木花開耶姫の話が、神話の中に入ったのだろうか。

それはありえないことではない。

夫の天智天皇も第1代・神武天皇の部分に入りこんでいる。

とすれば『日向神話』は本当に全部が神話なのだろうか……。

その人物は、最初は卑弥呼である。

彼女は「ヒミコ」と読むのが当然のようになっているが、

卑弥呼という漢字の3世紀当時の「魏の発音」は「ペ・ミャ・ガ」である。

これはインド・パ-リ語の「愛=ペマカ」の沖縄訛りである。

当時の沖縄~南九州は邪馬壹国の「壹、一」を

マレー語で「サツ=壹・マ=国」と

呼んでいたことでもわかるし、

沖縄語そのものがマレー語の一種の三母音語であることでもわかるように、

多くのマレー語を話す人々が住んでいた。

だからその人々は自分たちの言葉に翻訳して女王を「愛=カシー」と呼んだ。

同じことは中国系の人々も実行していて「愛=アイ」と呼び、

その墓に「アイの陵」と名づけている。

鹿児島県川内市にある「可愛山陵」や大阪府高槻市にある「藍(あい)野陵」がそれだが、

10世紀初めの政府の法令集『延喜式(えんぎしき)』では、

同じ発音だが、卑(いや)しい言葉の「アイ=埃(ホコリ)」の字にわざわざ変えて

「埃山上陵」という字を当てている。

旧倭国に対する憎しみが、

こんなところにも現れていることに注意する必要がある。

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2012年3月25日日曜日

マレー語に関する章(39)推古天皇と斉明天皇の共通点


推古天皇と斉明天皇の共通点
推古天皇と斉明天皇の共通点

次に、福岡の「香椎=カシー国」も「炊屋」に当たる点を考えてみよう。

彼女は吹田に住んでいたのだから、そこに「炊」の地名が残り、

それを消すために「カシー」は「スイ」という発音に変えられ、

後世にはさらに当て字も「吹」に変わった。

しかし都から遠く離れた福岡には「香椎」という発音と当て字がそのまま残った。

それは単に距離の遠さだけでなく、

そこにその女帝本人が葬むられているという消しがたい悲劇の記憶が、

真実の名を永く残したのである。

これはまた、吹田と福岡の双方に彼女の歴史がまたがっていたという手掛かりでもある。

しかしこのことは、『日本書紀』では斉明天皇一人の死の歴史としてしか書いてないので、

今ここで、この「名乗り」の謎が解けたことによって、天皇名の実体が明らかになり、

福岡とは何の関わりもない推古天皇の名乗りだけが福岡に残って、

反対にその名乗りをもたない斉明天皇が

そこで死んだことになっている『日本書紀』の矛盾から、

推古・斉明の2天皇が実は同一人だったという事実が明らかになったのである。

だがそれだけでなく、

それには「倭国史」にとって、もっと重要な他の要素も絡んでいる。

それは「カシー」という名詞の歴史が卑弥呼をはじめとする謎の女王名の秘密を

解き明かしてくれたからである。

カシーの本来の意味は「愛」というマレー語で、

「卑弥呼」という名詞と同じ意味をもった

「倭女王を意味する古語」の遺物である。

そのために、

古代に同じ福岡で死んだ女王・壹與=神功皇后の名乗りとも混乱している。

しかしそれらが一つずつ解けていって完全に解明された現在では、

この名乗りと地名の関係は、推古・斉明二天皇が実は同一人であり、

しかも吹田と香椎とにまたがる歴史をもっていることを

はっきりと示しているのである。

なぜならそれ以外には斉明天皇が死んだ福岡と、

推古天皇が君臨していた吹田との間に、

こんな「名乗りの重なりや分布」が起こる理由は絶対にないからである。

だが旧式の史学はこんなに大きな矛盾にも気づかずに、

現在まで間違ったことを教え続けてきたのである。

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2012年3月24日土曜日

マレー語に関する章(38)太秦は始皇帝の子孫か?


太秦は始皇帝の子孫か?
太秦は始皇帝の子孫か?

『ワジン』では「天照大神は秦の始皇帝の三女だ」という伝承が、

広く台湾に残っていることをお話しした。

しかし天武天皇がその子孫であるかどうかは、まだ何ともいえない。

ただ始皇帝の子孫を名乗る人々が、日本の貴族の中にいたことは事実である。

『新撰姓氏録』の左京・未定雑姓にある「笠達(かさだ)王」は

「秦・始皇帝の9世孫で物集連(もづめむらじ)の祖という」と書いてある。

また「太秦(うづまさ)公宿祢」は「秦・始皇帝の三世孫・孝武王より出るなり。

男(むすこ)、功満王。

帯仲彦(たらしなかつひこ)天皇八年来朝。

男・融通王(一云、弓月君(ゆづきのきみ))は

誉田(こんだ)天皇十四年、二十七県の百姓を率いて

帰化し来たり、金銀玉帛などの物を献じた」と書いてある。

この始皇帝の三世孫・孝武王という名は『史記』にも出てこない名で、

それに当たる人物としては

「子嬰(シエイ)」というのが紀元前199年に王として立ち、

四六日で滅ぼされているから、その人物を指すと思われるが、

その息子たちだというのだから、

これはヒミコ時代の帯仲彦(仲哀(ちゅうあい))天皇やその子の誉田

(応神 天皇の時代とは5世紀も離れている。

この年代計算は『日本書紀」の年代だと、ほぼそのころになるから、

これは『日本書紀』の年代を盲信して書き加えたために生まれた誤差である。

秦の遺民が日本にやってきたことは、『魏志韓伝』の辰韓などにも記録されて、

その特殊な言葉遣いが日本語の中にいくつも実在していることなど、

信じていいことである。

また功満はクマン=クマノと変化するから、

熊毛=クマケ=クマノと同じになり、

それが種子ガ島地域の総称であり、

太秦(ウチヌ)がウチヌ=沖縄と大津と同義語であることなど、

天武天皇とは切っても切れない地域に固く結びついていることは事実である。

この地域は3世紀」に「狗(く)奴国」があった地域で、

それが百済の発祥地でもあったことは、

これまで繰り返しお話ししてきた。

それは朝鮮半島に移動して三韓に発展していったから

「馬韓」がマレー語で「クダラ」と

発音されたために、

百済がその不思議な発音で読まれる原因になったこともお話しした。

馬韓(マカラ)とは「馬国」という意味の古代日本語なのだから、

その国民は「マヒト」である。

とすれば「真人(マヒト)」は、

どちらからみても種子ガ島人と深く関係している発音であるし、

「チヌビト」と読めば、

「沖縄~鬼奴(きぬ)国~茅沼(ちぬ)~紀伊」などと結びついて、

これもまた天武天皇の出身地を鮮明に映し出している。

さらに先の『新撰姓氏録』

「物集(もずめ)氏は「百済(もずみ)」の一族であることもわかっている。

とすれば、その名乗りもウソではなく、

いっそう秦の遺民が日本にやってきたことは事実だったとしなければならない。

それが徐福の同行者だったかどうかは別として、

天武天皇が「真人」を八姓のトップにしたことの意味だけはよく理解できる。

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2012年3月23日金曜日

マレー語に関する章(37)邪馬壹国誕生時の五彩圏配置


邪馬壹国誕生時の五彩圏配置
邪馬壹国誕生時の五彩圏配置

その一番わかりやすい例を、

あなたがよくご存じの『魏書倭人章』の国名でご覧にいれよう。

その中にある「支惟国」は誰が考えても「キイ国=貴国」である。

これは女王国以南の旁国の中に入っていて

「遠絶で詳しくわからない」ところにあった。

しかし先にみたように

佐賀市付近の「キイ郡=基肄郡」はこれとまったく同じ発音をもっている。

私たちはすでに、ヒミコ政権が倒されて邪馬壹国が生まれた直後に、

伊都国の隣りに南から奴国が移動した事実を知っている。

先に霧島が地元では「キイシマ」と発音されることもお話しした。

この三つのキイ国も同じように移動してきたものの、

元の地名と後の地名だと考えることができる。

そして「黄=基肄」の場合の「白=平戸」も知っている。

これは長崎県にある。

その名からわかることは、

「ナガ」は「奴(な)ガ国」の一部だということである。

古代には「前」を「サキ」と読むから「奴ガ前=ナガサキ」になる。

長崎は「肥前=日の前の国」であり、

平戸は「ヒラト=日羅門」で「日の国の入口の港」という意味である。

この日の国は、

旁国ではマレー語で「ハリ(日)国=巴利国」と当て字されていて、

同じように移動してきたことが簡単にわかる。

では対照的な東の大分はどうなるだろう?

そこは「豊後大分」である。

豊後は「不呼国」であることはわかっているから、

これも旁国が同じように移動してきたことがわかる。

ついでにお話しすると、

その大分もオオイタと発音するのは後世のことで、

もとはやはり旁国の一つ「烏(ウ)奴国」である。

この「烏」の当て字は、

奄美大島の「大=沖縄語でウフ」に対する当て字だから、

大分も「大=ウ」「分=フン」で、

やはり「ウフの(ン)国」に対する北九州式当て字なのである。

それが「オオ」の発音で「青=倭」を意味したのだ。

これで「黄=基肄」を中心にした東西線は、

それ以前のヒミコ政権時代には南の旁国の中にあった五つの国が、

邪馬壹国の誕生と同時にまず

「奴国」と「不弥国」が九州北部の中央に移動し、

それと同時か、あまり時間差のない時期に、

他の「支惟国」と「巴利国」と「不呼国」とが、

それと平行して南から移動したという事実が、

地名ではつきり読みとれたのである。

以上で「黄=基肄」を中心にした東西線は、

ヒミコ戦争の戦後に生まれたことが確認できた。

歴史記録と地名とをより精密に比較し分析すれば、

どの国は、いつ、どこまで、なぜ、移動したかといったことが、

年代別に特定できる、という事実が、よくご理解いただけたと思う。

こんなに見事に歴史の復元ができるのは、

私(加治木義博)の復元した邪馬壹国の位置が正確だという証明なのである。

他の邪馬台国説では、これは絶対に不可能なのだ。

北九州説では二つの奴国の説明もできないし、

大和説では途中にある多数の「東西線」全部の説明がつかないだけでなく、

こうした旁国の位置関係のような、ありとあらゆる証拠が、どれもこれも食い違う。

こうしたことのすべてが、

五彩圏の移動の状態は、本シリーズの主題である建国の歴史が、

私(加治木義博)がこれまでお話ししてきたとおりだったと証明する。

過去の

「紀元前後に神武天皇が、奈良に攻めこんで、

それ以来奈良にヤマト政権が存在した」という

「間違った皇国史観」が何一つ合理性がなく「真実ではない」と、

徹底的に雄弁に立証しているからである。

なぜなら、

ご存じのとおり五彩圏が奈良に届いたのは、

仁徳天皇より後、

倭王・武=允恭・雄略天皇のときだからである。

それは五王の名乗りも、天皇たちの名乗りも、その他の地名・国名なども、

すべてが異口同音に声をそろえて証言しているのだから、

その全部をくつがえすだけの証拠と証明がそろわないかぎり、

この結論をわずかでも変えることはできない。

これで五彩圏が、北上し、東進したことが確認できた。

その時代もまたはっきりわかった。

その主義が誰々であったかもわかった。

私たち日本人の出発点を、どこにとるかは自由だが、

これまでに3千年を超える歴史がわかった。

なにも紀元ごろなどと遠慮することはないのだ。

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2012年3月22日木曜日

マレー語に関する章(36)混乱の原因はマレー語の誤訳

混乱の原因はマレー語の誤訳
混乱の原因はマレー語の誤訳

それ以外にもこの事実は、

大量の文化財という形で、無数の証拠を残している。

弥生文化はマレー語圏経由でやってきた人々の文化であることは、

ちょっと双方の土器や家屋を比較してもすぐ理解できる。

東南アジア各地には

今も日本の弥生文化と同じものが大量に生き続けているからである

(『コフン』46ページや『日本人のルーツ』保育社・参照)。

日本語や朝鮮語にマレー語が入っているのは当然なのだ。

そのマレー語で

「種族・部族」は「サマ」で、

「船」は「サマン」である。

九州方言では、「ン」は助詞の「の」だから、

それと誤解されるとサマンは「種族の」という意味に取られるし、

反対にサマも「部族の」のつもりで「サマ・ン」というと「船」と間違われる。

5世紀の新羅人は九州人だったし、

倭国の人たちももとは新羅人と同じ

南九州から移動した旧邪馬臺国人なのだから、

「の」を「ン」と発音する。

これだけの条件がそろうと、

部族と船はマレー語の誤訳がもとで、

実際に混乱し、簡単に入れ替わるのだ。

だから本当は「81部族を率いて」という意味の伝承を、

『古事記』編集者が「81艘の船を率いて」と誤訳した可能性は非常に大きいが、

その反対にそれが誤訳でないという論拠は、どんなに探してもみつからない。

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2012年3月21日水曜日

マレー語に関する章(35)クダラもマレー語



 《クダラもマレー語
 「クダラもマレー語

 このマレー語は、

 百済を「クダラ」と読むことにも残っている。

 百済は漢字のもつ発音でも意味でも、

 どんなにしても「クダラ」とは読めない。

 だがマレー語で「クダ」は「馬」のことである。

 もうおわかりのように朝鮮半島の百済は、

 ヒミコ当時は「馬韓」と書かれている。

 これはマレー語の「クダ」に「韓=カラ・ガラ」を、

 「が国(ラ)=の国」の意味で当て字としてつけたもので、

 「馬国」という国名だったのである。

 国をラと発音する人々には、

 それは「クダラ」としか発音できなかったのだ。

 そこが後に「百済(ホズミ)」のものになっても、

 漢字を知らない人々にとっては、そこは「クダラ」という土地でしかなかった。

 あとから来た「百済」という漢字は、

 やはり永遠に「クダラ」と読まれることになった。

 これとまったく同じことが、

 奈良の「飛鳥」や「春日」でも起こつている。

 マレー語は、日本、朝鮮半島だけではなく、

 もっと北のシベリアにもたくさんの地名を残している。

 スンガリー(松花江)は「大河」。

 ウスリー(烏蘇里江)は「源」というマレー語。

 このウスリー江はハンカ湖という独特の広大な源をもった川だからである。

 それはソナカ宣布団がマレー語圏から大量の人々を連れて来たし、

 それ以前にもカリエン人などが、

 水稲栽培を日本列島や朝鮮半島南部にひろげている。

 そしてこれまで古代史解明に最も重要で欠くことのできない言語として

 「沖縄語」が登場しているが、

 その第一の特徴である「三母音語」はマレー語族の特徴なのである。

 それを遠くシベリアまで運んだ人々が

 『ジンム』でお話ししたカリエン人だったことは、

 もう申し上げるまでもないと思う。

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2012年3月20日火曜日

マレー語に関する章(34)確定している邪馬壹国の所在



 《確定している邪馬壹国の所在
 「確定している邪馬壹国の所在

 つぎの例は

 その鹿児島県が古来別名を「サツマ」と呼ばれていたことである。

 この「サツ」はマレー語の「一(いち)」である。

 するとそこが「邪馬壹(いち)国」と呼ばれ、

 その女王が「壹與(いちよ)」と呼ばれ、

 その最高支配者が

 「伊支馬=イチマ=一国の王」と記録されている理由が一つ残らずわかる。

 「サツマ」とは「一国」をマレー語読みしたものだったのである。

 この「一」は日本語独特の数詞である「ヒ・フ・ミ・ヨ」の「ヒ」である。

 これは「日」と同じ発音をもっているから、一の国はそのまま「日の国」である。

 先にお話ししたように、

 『旧唐書』は7世紀の小国日本を、

 鹿児島県以外にない地理条件で記録していた。

 そこは一の国と同じ国だとすれば、

 「日本」の語源

 この「一(ヒ)の国」から「日(ヒ)の国」へと、当て字が変わり、

 それに「都」という意味の「モト(本)」がついて

 「日のモト(日本)」になったことが完全に理解できる。

 これだけの複雑な条件に合う地域はここ以外にはない。

 これが邪馬壹(いち)国が鹿児島県だというキメ手でもある。

 このことはご覧のように

 『記・紀』も『三国史記』も『旧唐書』も、

 そして『魏書倭人章』も、すべての記録が「異口同音」に完全に一致して証言している。

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2012年3月19日月曜日

マレー語に関する章(33)日本語は大量のマレー語でできている



 《日本語は大量のマレー語でできている
 「日本語は大量のマレー語でできている

 [後漢書・烏桓伝]の81は「部族の数」で、

 『古事記』の81は「船の数」で、

 『日本書紀』の81は「天皇の寿命」で、

 どれもまるで一致しない。

 これは単なる「偶然」の一致、関係があるとみるのはムリだと思ったこともあった。

 しかし、『日本書紀』の81は、意識的にスリ替えたものだとわかると、

 残る「部族の数」と「船の数」の問題は、

 立派に理由のある食い違いで、

 偶然ではないと立証するつぎのようなキーがみつかった。

 その第5のキーは「マレー語」である。

 日本語は大量のマレー語でできているということは、

 私(加治木義博)の『邪馬臺国の言葉』(コスモ出版刊、1976年)で詳しくお話ししたが、

 お読みでない方のために別の例をあげてみよう。

 『魏書倭人章』の女王国の旁国の中に

 「巴利(ハリ)国」というのがあるが、

 その後の移動発展を追っていくと、

 現在の兵庫県、昔の「播磨(ハリマ)」になる。

 それは国を「マ」と発音したからで、

 古代の日本周辺の国々ではこの「マ」を含めて、

 国のことを「ラ・マ・ヤ・ナ」という発音と、

 その方言訛りで呼んでいたことが実証されている(『ジンム』参照)。

 この巴利国は、今の鹿児島県下にあり、地名遺跡もある。

 この地方は日向、日の国と呼ばれた地域である。

 日をハリと発音するのはマレー語だ。

 だがこれ一つでは証拠には不十分だ。

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2012年3月18日日曜日

マレー語に関する章(32)『日本書紀』は事実をスリ替えた

『日本書紀』は事実をスリ替えた

『日本書紀』は事実をスリ替えた

では「81」はどうなったか?  それもその部分の最初にある。

「天皇崩。時に年81」と書いてある。

これはどうしても同じ記事なのだ。  国民は

では「81」はどうなったか?

それもその部分の最初にある。

「天皇崩。時に年81」と書いてある。

これはどうしても同じ記事なのだ。

国民は昔話を語り伝えるから『日本書紀』に書かないわけにはいかない。

しかしありのままには書けないから「あれはこういうことだったのだ」と、

まるで正反対の出来事として編集した。

人々が記憶している81という数は、

「本当は天皇の年齢だったのだ」とスリ替えてゴマカシてしまったのである。

この「記事の食い違い」の問題で、

『古事記』が書いた事実が『日本書紀』には都合が悪かったことがわかった。

では何が、どう、都合が悪かったのか?

それを徹底して追及してみよう。

この間題の第1のキーは、

「盟神探湯」だ。

これは法制史で「神判」と呼ばれるもので、

チュートン人の裁決法である。

彼らは熱湯や火に手を入れ、真赤に焼いた鉄斧などを握らせ、

毒を飲ませ、闘わせて、火傷や死をまぬかれた者は無罪だとする法律を使った。

これはマレー語にもなり、

アジア各地の和人の子孫も伝えているのを、私(加治木義博)自身、現地で確かめてきた。

チュートン人は英語でウエールズ

アングロサクソン語でワラスと呼ばれることでおわかりのように、

英国人の祖先の一部である。

紀元前2~3世紀に中央ヨーロッパに広がった。

また、その「斧」が証明するように、

彼らはその鉄器と神判をハッティ人(ハチ=ハットウ=ヒッタイト)から受け継いだ。

この人々も「和人+倭人」を構成していたことは、

『ヒミコ』でお話ししたとおりである。

彼らはヒミコ政権よりも早く、カリエン人に混じって日本列島にやってきていた。

そして朝鮮半島以北にまで広く居住していたことも、

お話ししたとおりである。
「倭人」は仏教徒だったから<ウワイ>と呼ばれたのであって、

その信者が「倭国」をつくつていた。

仁徳天皇系皇朝は、もちろん仏教徒だったから「倭王」と呼ばれた。

五人の王の内、少なくとも讃・珍までは正真正銘の「ウワイ王」だった。

その倭王のあとを継いだ允恭天皇が、

その仏教教主としての立場を捨てて、

倭国天皇の第一の資格であり至上命令でもある「慈悲」を忘れて、

自分がその法の施行者である祭政一致のインド法にも背いて、

仏敵である野蛮な連中が使う「盟神探湯」という無慈悲な悪法を、

なぜ病気が治る早々、急いで使う必要があったのか?

倭王・讃の仁徳天皇当時から

「倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」

六国を支配し、倭王・済の反正天皇の時に加羅が加わって、

次の倭王・興が継いだ時には何も変動などない。

それなら何も今さら「氏姓を正す」必要などあるはずがない。

この第一の問題の結論は、

その時の「天皇の身の上に何か変動があった」ということ以外にない。

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