2012年1月30日月曜日

歴史研究者の態度



 ◎言語復原史学の役割

 発掘考古学は史学の全てではなく、発掘という一分野を担当しているに過ぎず、

 史実を復元する任務はもっていないからである。

 「言語復原史学が今、世界の史学を輝かせはじめた」のは

 発掘考古学の手の届かない部分を担当するのは文献史学の役目で、

 それに欠けていた古い手法を改善したのが、頭書の原則を発見し、

 正しい発音を復元して『言語文化財』の徹底した発掘に努めた

 「言語復原史学」で、その成果がいま花咲きはじめた、

 徹底検討を繰り返して得た「動かぬ定点」が、

 次第に日本建国の史実像を拡大しつつある。

 その意味ではこれまで半ば眠っていた本誌『文化財…情報』の、

 過去の全ての情報が、今こそ眼を覚まして、真実を物語りはじめたのである。

 それはまた同時に副産物として、

 これまで定説化している西欧学界主導の世界史の誤りも、

 明快な立証力でどんどん改訂し続けている。

 皆様がお気づきにならないうちに、

 世界の人々が求めていた真相が続々と展開し続け、

 世界の真実の古代史が日々再生し続けている。

 世界で最も遅れていた日本の史学。

 3世紀の歴史さえ混沌としたまま、

 国家を象徴する正史ですら15代もの天皇を義務教育から削り去ったまま、

 という開発途上国にも見な最低水準にあった日本の史学。

 それが今や世界の学会をリードしている!

 これこそ、日本の旧史学に飽き足りない有識者たちが、

 求めてやまなかった最新の『文化財情報』なのだ!!

 ◎証拠で固める史実復原法:「推理力と古代史」

 証拠で固めることは当り前であるともいえる。

 エジプト文字の解読には、ロゼッタ石という辞書が、ちゃんとあったのに、

 『記・紀』にはそれがないからである。

 皆様は「しかし『記・紀』は、そんなものがなくても読めているではないか?」と、

 おかしなことを言うとお思いであろう。

 この点が、重要な点なのである。

 なまじ読める文字で書いてあるために、謎が一層深まっている。

 なぜなら、その文字が漢字であるために、

 アルファベット式の音標文字の文書では起りようのないこと、

 「音(おん)の読みちがい」、

 「意味のとりちがい」が発生するのである。

 そのために実に多くの学者たちが、苦心惨憺して

 「こう読むのだ」、「私はこう思う」、「いやこうだ」と、

 自分なりの主張を譲らない。

 本当の読み方がたった一つしかない筈の歴史書が、

 沢山の「想像説」を誘発してしまったのである。

 しかも、そのどれが正しいのか誰一人証拠をみつけられないでいる。

 古代史には、もちろん文献史料以外の分野がいろいろある。

 遺物を発掘する考古学がはなばなしい成果をあげてはいるが、

 それが解明してくれるものは漠然とした事実がほとんどで、

 結局は文献との比較が必要になる。

 高松塚がいい例である。

 そのため、文献のない部分の考古学では、

 まず発掘品の素性について、想像が始まる。

 およその見当をつけて、

 これまでの成果と比較して次第に真相に肉薄して行くのである。

 この場合は、たしかに想像力がなければ仕事にならない。

 ところが、文献の方では、同じ古代史を扱いながら、

 想像がかえって謎を生み出してしまう。

 物質史料を扱う場合と文献史料を扱う場合とでは、

 逆になるのであろうか?。

 その答えは、物の場合は、色、形、材料、用途、製作技術といった、

 動かない要素がある。

 それに対して文献の場合は、いろいろに読める発音、

 いろいろに読める意味がある。

 ゆれ動く要素しかないのである。

 うっかりしていると同じように見える古代の遺物だが、

 まるで正反対の要素でできている。

 この二つを同じ取扱いにしたのでは、

 結果は始めから駄目だとわかっているのである。

 文献を、どう扱えば本当の読み方ができるかという答えは、

 この違った二つを比べてみることから得られる。

 古代に一つの壷がある所を考えて戴きたい。

 それが洪水で押し流された土砂に埋って、割れて、いま発掘されたとする。

 バラバラの破片を集めてつなぎ合せると、多少不様であるが、

 もとの姿をはっきり思い浮べられるものに「復原」できる。

 こんどは同じ古代の壷を、幾人もの人がスケッチした所を考えてほしい。

 ある人は実際より細長くしか書けないし、ある人は歪んでしまった。

 要するに全部、そのままには描けなかったとする。

 その壷はどうなったかわからないが、

 そのスケッチが全部今見つかったとすると、

 その下手くそなスケッチは役に立たないであろうか?。

 たとえ下手であっても、幾人ものスケッチがあれば、

 それを比較して修正し合うと、もとの壷はなくても、

 ほぼそれに近いものが復原できる。

 文献は言葉によるスケッチだから、同じ対象を描いたものを、

 幾つも集めて修復することによって、歪んだ読みや意味を修正して、

 正しいものに「復原」できるはずである。

 もちろん、そのためには、同じものを描いたスケッチに相当する資料を、

 できるだけ沢山集めなければならない。

 それをどう処理すれば原型に復原できるかも工夫せねばならない。

 それは面倒で難しい仕事にはちがいないが、それが出来れば、

 壷そのものはなくても、真実に近いものを再構成できるのと同じく、

 別に考古学資料が発掘されなくても、

 「ほぼ、こうであった」という歴史が復原できる。

 その復原できた部分を一つの証拠として、

 さらに次の部分を復原してみると、

 正しく復原できた場合は、その二つの部分が互いに対応して、

 くい違いが生れない。

 同じ方法をくり返すことによって、その証明し合い、

 次第に有機的組織をもちはじめる。

 これまで「ではなかろうか?」、

 「私はこう思う」という想像ばかりであった史学が、

 証拠と証明をもった「史実」で復原された

 「こうだった」という動かないものになるのである。

 「動かない証拠がある」こと、

 それ以外に法律でも、科学でも、道はない。

 歴史もまた、一つ一つ証明をもち、数々の証拠で、

 がっちりと組立てられたもの以外、

 真実だと主張することは許されない。

 それが出来てこそ始めて「科学」だといえるのである。

 やりかたの、あらすじはお判り戴けた思う。
 
 ◎恥かしい古代史不明国

 これから解読にかかろうという暗号書が本物かどうか、

 誰かがいたずらに作ったものではないかまず確かめる必要があるのと同じく、

 私たちも『記・紀』がどの程度信頼でき、

 どの程度頼りないか、あらかじめ知っておく必要がある。

 全然信じられないものなら、

 苦労して解読しょうとするのは無駄で、ばかばかしい。

 しかし信頼できるとなれば、それは今なお不明のままで、

 文明国としては実に恥かしい状態にある謎の古代史が、

 私たちの先祖の真相を教えてくれる。

 大へんな喜びを与えてくれる、大きな違いがあるからである。

 もちろん、信じられるかどうかは、全部解読できなければ、

 わからないともいえるが、

 ほぼ、どうなのか、あたりをつけてみられないだろうか?。

 そのためには、『記・紀』の著者たちが、いい加減に書いた部分と、

 重点をおいて書いた部分を見わけることによって、答えが出そうに思える。

 『記・紀』は何を目的に書かれたのだろう?。

 それについていろいろな説があるが、私(加治木義博)のみる所では、

 天皇を中心にしていることは間違いない。

 『記・紀』の「系譜」の部分は、

 ほかの部分よりも慎重に記録されていそうである。

 また長い文章の部分は、どうしても憶えちがいや忘れた部分、

 書きちがい部分が生れやすいが、人名、ことに天皇家のものとなると、

 短かくて間違いにくいのと、緊張して書かれる、ということが重なって、

 一番、まちがいが少ない、と考えられるからである。

 ところが、

 『日本書紀』と『古事記』その他の文献に書かれたその系譜を比べてみると、

 かなりの違いがあることがわかる。

 これは何故だろうか?。

 『記・紀』の著者達のどちらかが、いい加減に書いたためか、

 間違った資料に基づいたためか、それとも時代が古いために、

 言い伝えが訛ってしまっていたのか?。

 その理由らしいものを著者自身が説明している部分がある。

 『古事記』序文である。

 『記・紀』の系譜比較図

 (古事記)

  天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命

 (アマツヒタカヒコナギサタケウカヤフキアエズ)

  (日本書紀)

  彦波瀲武鸕鷄草葺不合尊(ヒコナギサタケウカヤフキアユズ)

 (記)(その子)

  五瀬命。稲氷命。御毛沼命。若御毛沼命(またの名、神倭伊波礼毘古命)

 (紀)(その子)

  彦五瀬命。稲飯命。三毛入野命。稚三毛野命

 (またの名、神日本磐余彦火々出見尊)

 (記)
   神武天皇─────────┐┌多芸志美美命
                ├┤
   阿多之小椅君妹阿比良比売─┘└岐須美美命

 (紀)
   神武天皇─────────┐
                ├─手研耳命
   日向国吾平津媛──────┘

 (記)
           (応神天皇)
           品陀和気命───┐
                   ├若野毛二俣王┐  允恭天皇─────┐
          ┌息長真若中日売─┘      │           │
   咋俣長日子王─┤               ├─忍坂之大中津比売命┘
          └─────────百師木伊呂弁┘
                   (弟日売真若比売命)


 (紀)
           (応神天皇)          允恭天皇──┐ 
           誉田別尊─┐              │
                ├稚野毛二派皇子─忍坂大中姫命┘
   河派仲彦────弟媛───┘


 (上宮記)
           (応神天皇)
           凢牟都和希王─┐
                  ├若野毛二俣王┐
   淫俣那加津比古─弟比売麻和加 ┘      ├践坂大中比弥王
                  母々恩己麻和加中比売┘

 天武天皇が『諸家臣が、その家に代々伝わった帝紀(天皇の系譜)と

 本辞(歴史記事)をもっているが、その内容が間違ったものや、

 嘘を書き加えたものが多いと聞く、

 今のうちに、その間違いを正しておかなければ間もなく何が 

 本当だか、わからなくなる。

 それでは国が維持できなくなり、


 せっかく国民を教化しようとする天皇の仕事が根底から駄目になる』といって、

 正しい帝紀と旧辞を、稗田阿礼という記憶力抜群の家臣に暗記させた、

 と書いてあるのである。

 (この訳は私(加治木義博)のもので不安な方は、

  岩波文庫の古事記などに原文がのっているから御自分で読んでみて頂きたい。)

 「複写:古事記序文」

 於焉、惜舊辞之誤忤、正先紀之謬錯、詔臣安万侶、撰録稗田阿礼所誦之勅語舊辞以、献上者、

 謹随詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不逮心、 

 旧辞、帝紀に間違いがあったことと、

 上古の言語をそのまま伝えられないことと、

 文字、文章、言語そのものが.当時すでに異なっていたことを明記した部分。

 この文章でわかることは少くとも8~9世紀に重臣たちの家に一種の歴史を書いたものか、

 言い伝えがあり、それが違った内容だったということである。

 といっても、この序文がいい加減な作文であれば、

 本当のところはわからないのであるが、

 かなり本当にありそうな話である。

 真偽の詮索よりもどういう原因で、系譜に狂いが生じたかを考える参考にはなる。

 ただ、この古事記が、その序文どおり、天武天皇の発案になるものなら、

 なぜ推古天皇までで止めて、それ以後の正確な記録を残さなかったのか?

 ということが疑問である。

 さらに、なぜ古代の方に詳しく、後代の方に欠史があるのか?

 という疑問も湧いてくる。

 なぜなら、崇神天皇から顕宗、仁賢両天皇までは、

 かなり詳しい歴史物語があるのに、

 それ以後の9代の天皇は、ただ系譜が書いてあるだけなのである。

 天皇自身が「歴史が間違っていては国家の一大事だ」といい、

 それによって古事記が生れた、と書いた本人が、

 不鮮明も不鮮明、何一つ書いてない部分を作りあげてしまったのである。

 小さな間違いがあっても、いけないというのに、

 どんなにでも勝手に想像できるように空白にしてしまうということが、

 常識で考えられるであろうか?。

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2012年1月29日日曜日

スキタイ・スキュタイ(12)



 スキタイ
 スキタイ

 《インダスヘ入ったアーリャ人こそ塞=釋迦族=倭人

 中国人が、その「倭」に人をつけて「倭人」と表記したのは、

 遅くとも周の時代だったと解るのは、

 『論衡』にある「倭人、鬯草を貢す」という記事によるが、

 周の前の王朝が殷で、それは稲敷から中国へ渡ったウバイド人が建てた国だったことは、

 既によく御存知だから、もう『論衡』を疑う必要はない。

 この鬯草は東南アジアに多産する薬用キノコの一種・霊芝(レイシ)だから、

 倭人の移動コースもわかるし、当時、すでに薬草知識が発達していたことも解る。

 だがそれ以上に、古代ウバイドからインダスへ移住した人々がパーリ語人であり、

 シャカ族すなわちスキタイ人(塞)だったから、

 魏は塞曹掾史の張政を我が国に派遣したのだと、

 当時の人種区別と認識の深さも併せてわかる。

 『魏書倭人章』の解読は、ここまで解らなければ十分だとは言えない。

 これでウバイド人がインダスヘ入ったことは動かなくなったが、

 それはスキタイ人で、在来、単にアーリヤ人という漠然とした

 呼称でしか呼ばれていなかった人たちだったから、

 この発見は世界史上、最も重要なものの1つになった。

 またこの発見が不動の確実牲をもつことも

 仏教の説く最大の特質『慈悲』が、

 平和と愛を鉄則とした

 女性国家・ウバイドの国是からしか生れない思想によるものだったと判る。

 卑弥呼はウバイド女王なのである。

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スキタイ・スキュタイ(11)



 スキタイ
 スキタイ

 《日本語の巨大ルーツ発見

 日本語の文法はウラル・アルタイ語と同じだから、

 それと同じ祖語から分かれたのだろうというのが在来の定義(実は仮定)で、

 その歴史もルーツもまるでわかっていない。

 世界の大国中こんな状態のまま停まっているのは日本語だけで、

 経済だけは超大国でも、自国語の歴史すら不明のままでは、

 諸外国の人々に蔑視されてもやむを得ない。

 「比較言語学の無能と自滅

 だがそれは我々日本人の責任ではない。

 欧米で生まれた比較言語学のもつ根本的な誤りに原因があるからである。

 言語は単語を並べて意思を伝えるものだ。

 その並べ方=語順を「文法」と呼ぶが、

 比較言語学は文法を分類の拠り所にしてきた。

 しかしそれではその言語の出発点が、

 他のどの言語と同じかという言語の系統がわかるだけで、

 それ以外のことは何一つわからない。

 「言語を本当に構成しているのは単語

 文法は無形の「語順」に過ぎない。

 会話の全体を占め有形の文字で表現される本当の言語は「単語」である。

 いま私たちが使っている厖大な量の単語が、

 文法ができた数万年前から存在したはずはない。

 最初は原始的な単語を並べていたに過ぎない。

 人知が進むにつれて次第に新しい単語を加えながら現在の言語に成長したのだから

 言語は使う人々の文化発展の歴史を記録している。

 それは「単語」が記録しているのであって、

 原始時代そのままの文法は何の役にも立たない。

 文法で言語を分類するシステムは

 その言語の出発点とその時の近縁語を知る以外には何の価値もない。

 単語を「借用語だから駄目だ」といって切り捨てる学問では

 言語の歴史も価値もわからない。

 これは個人でいえば家系だけはわかるがそれ以後の履歴は何もわからないということだ。

 仮にそんな「○○氏の子孫」としか書いてない履歴書を提出したとすれば、

 相手は異常者とみなして採用どころか検討もしない。

 履歴書で必要なのは、その人物の学歴や経歴や実績だからである。

 文法だけを言語の分類基準にした過去の比較言語学は、

 こんなことにさえ気づかない古い学問の遺物でしかない。

 「日本語はウラル~アルタイ語の一種だ」としてきた在来の定義は、

 この程度のものに過ぎなかったのである。

 「借用語

 そんな誤った定義の視点では、

 ウラル~アルタイ語の原始的単語以外は全て借用語にみえる。

 「借用語だ、日本語本来のものではない」とハネのけてしまう。

 だが日本語は私たちの祖先が採用し、

 生命を支え続けて今日を築いた必須の生きた言葉なのだから、

 新しい単語が日本語に入った歴史と、それがどんなふうに成長発展してきたか、

 その正しいルーツを知ることが必要なのである。

 最も原始的な単語以外は全て借用語だと切り捨てては

 私たちの祖先の歴史は消去されてしまう。

 近世になって言葉だけが輸入された英語のように

 「他の言語だけを借りる」ことは古代には不可能だった。

 それらの言葉をを話す人々が自身やってきて次第に新しい日本人を形成したからこそ、

 今の日本語が出来上がったのである。

 誰が教えたか?ではなく、

 それらの単語は、いつ、誰が、どんな風に、

 日本語の中に加えたのか?を知ることが重要なので、

 それを知らなければ、日本人の本当の歴史もわからない。

 しかしそんなことがわかるのだろうか?。

 今回発表する「パーリ語と日本語の関係を物語る実例と結論」は、

 この疑問に、世界で初めて明快な答えを出してくれたのである。

 「パーリ語とは

 仏教を世界に広めたアソカ王(古代インド・マガダ国王)の王子マヒンダが

 紀元前243年スリランカに派遣されて、

 スリランカ王デーバナンビヤティツサを信者にし、

 国民に広めた小乗(上座部)仏教の経典に使われていた用語を、

 聖典という意味でパーリと呼んだ言語のことである。

 アソカ王たちはインド~アーリヤ系のシンハラ人で、

 その言語はシンハラ語だったから、パーリ語は釋迦が話した言葉を記録したもので、

 Sakya サキャ(塞・スキタイ)語がインド語化した言語である。

 今のシンハラ(スリランカ)語でもタミル語でもない。

 それが何故?いつ?どんな風に?、 

 このあと見本ご覧にいれるように実に大量に日本語に混入し、

 私たちが立派な日本語として日常使うようになったのか?。


 「我が国への仏教初伝は弥生時代誕生期

 このことは誰もが我が国への仏教伝来を連想するが在来は日本の仏教は

 5世紀に初めて朝鮮半島の百済から伝わったとしてきた。

 それなら当時は中国仏教の最盛期だから渡来したのは全て漢訳仏典で、

 そこに書かれたものは中国語だ。

 それがどんなに普及しても原語のパーリ語とは無関係で、

 パーリ語が我が国で大量に日常語化するはずはない。

 ところが今発表する「日本語化したバーリ語」の発見数は5000語を遥かに超えている。

 これは明かに5世紀の百済仏教伝来とは無関係にパーリ語を話す人々が大量移民し、

 日本語を大変貌させるだけの大勢力をもっていた事実を立証している。


 「東方仏伝の指揮者ソナカと神功皇后夫妻

 その移民の時期はいっだったか?それもはっきり突き止めることができた。

 アソカ王命をうけて東方へ出発したのはウッタラ宣布団ソナカ宣布団とで、

 双方とも我が国に多くの遺物を残しているからである。

 最初に彼等がやってきた時期は5世紀より遥かに古く、弥生時代の開始期に一致し、

 第二波の渡来は紀元前後だと特定できている。

 それは卑弥呼で名高い『魏書』の倭人の章に巴利国と不弥国が記録されているが、

 巴利はパーリ。

 不弥もブーミ=新国土を意味するパーリ語だからである。

 そればかりではない。

 神功皇后夫妻の名は共にソナカに対する当て字で東方仏伝の指導者ソナカと同名だし、

 皇后のサニワを勤めた武内宿祢のそのサニワとは、

 やはりパーリ語で大臣を意味する sajiva への当て字であるといった物証が

 『記・紀』その他に充満している。

 それらもすでに大量に考証済みで、『記・紀』は今や信頼度の高い史書に変貌した。


 「日本人蔑視を吹き飛ばした成果

 数個の言語が似ているだけなら偶然とか「他人のソラ似」ということもあるが、

 参考までにこの後に添付したサンプル語だけでも300語に近く、

 それだけでもパーリ語と日本語が似ているのは偶然だ、などという反論は完全に消滅する。

 パーリ語が現代日本語の母であることと、

 その単語の質の高さによってそれが古代日本文化を飛躍的に高め、

 近代の日本人発展の基礎こなっていたこともまた疑う余地がない。

 日本人蔑視は跡形もなく消えてしまう。


 「ヒエログリフ解読を遥かに超す発見

 これはナポレオン軍がロゼッタ・ストーンを発見して欧州に持ち帰り、

 それがヒエログリフ解読を可能にしたのに似るが、それによって得られたものは、

 壁画や彫刻などに残された文字から、

 古代エジプトの文化僅かに読み取れただけでしかない。

 それに比べるといま曲がりなりにも超大国である我が国の古代文明を、

 厖大な量の言語で、当時のまま白日のもとに明かにする今回の発見は、

 日本人だけでなくアジアにおける古代人類文明の実態を明かにした、

 質、量ともに希に見る巨大な発見なのである。

 それは単に古代エジプト文字が読めたといった程度のものではない。

 世界の一大指導勢力でありながら従来は正体不明の孤立語を話す

 小さな島国人とみられてきた日本人観がどんなに間違っていたか、

 また古代日本人が当時の世界でも希な、

 どんなに凄い先進文明の持ち主だったかまで徹底的に立証しているからである。

 これほど強力かつ重要な言語学上の発見は、人類史上いまだかつてない。


 「解けた弘法大師伝法の謎

 それはまた例えば宗教学上の永い謎もとく。

 弘法大師空海は中国へ留学して短期間にインド出身の老師の教えを吸収し、

 仏典の原典を読み、永年修行に励んできた中国人の先輩たちを超えて、

 法灯を授けられて日本へ持ち帰った。

 これは大師の天才によるものとはされてもなお大きな謎を残してきたが、

 いまパーリ語と日本語の謎が解けてみると、

 言語の上でも大師が中国人先輩たちより遥かに有利だったことがよく理解できて、

 大師が受けた栄誉が真実であり、それを奇跡としてきた一切の謎が解けるのである。

 次に抜粋したそのサンプルは300語弱であるが、ほとんど説明なしに、

 一見してご理解いただけると信じる。

 それらが僅かな発音差による変化で現代語にまで移行するのは、

 沖縄・南九州の、いわゆる方言を経過した結果だということも、

 よくおわかりいただけると思う。

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スキタイ・スキュタイ(10)



 スキタイ
 スキタイ

 《出発点サカと到着点サタ

 「語源は」

 塞(サカ)の神=猿田彦=岐(フナト)の神

 塞(サヘ)の神=佐太 船渡(フナト)・船人(フナト)

 塞(サイ)の神=佐太 船渡(フナワタ)・船人(フナト)

 サカ     サタ  ワタツミ

 釋迦族    = スキタイ人

 船岐・船木=フェニキヤ人

 塞国=サカナ=魚=海神

 魚(イオ)国=倭国(ウオマ)=イオニヤ人

 倭・塞=オオサカ

 ポセイドンの国大阪

 百済・和泉 国

            サカ   →   サタ   時代     人物

 ① 種子→日向    坂井       佐多岬  247年   壹與

 ② 豊後→伊予    佐賀関      佐田岬  421年以前 仁徳天皇

 ③ 和泉→河内    堺        佐太   469年   興

 ④ 丹波→出雲    嵯峨       佐太   475年以後 佐太(守口)の太守

 「その他」  

 ① 讃岐→吉備    坂出       西大寺

 ② 肥前       佐賀  

 ③ 土佐       佐賀


 《セットになった「サカ~サタ」は何語か?》

 こうして史実の時代が確定でき、事件の内容が完全に把握できると、

 『紀・紀』が書いている仁徳天皇系皇朝の歴史や、

 『三国史記』の疑わしい記事も、批判しながら取捨選択できるようになる。

 その意味で「サカ~サタ」は実に適当な教材を提供する

 偉大な文化財だったことがよくおわかり載けたと思う。

 だがこの講義は学説発表の場ではない。

 着眼点と疑問の解決システムをお教えする講座である。

 あとはご自分で原典から史実をご発掘い戴きたい。

 ではサカ~サタは何語だったのであろう?。

 塞の字は閉塞(へいそく)、城塞(じょうさい)と、

 漢音ではソクとサイと発音するが、

 優婆塞(ウバサカ)でわかるように「サカ」とも読む。

 『日本書紀』では塞の字を使った塞(さい)の神が、

 伊弊諾(イサナキ)尊が黄泉から逃げる場面に出てくるが、

 この神名は猿田彦の別名である。

 しかしサカには釋迦を指す使い方もある。

 卑弥呼が死んだ時、伊都国に滞在していた張政の「塞曹掾史」という肩書きも、

 当時、中国に対する強い外圧の一つだった

 「塞(サカ)族=釋迦(シャカ)族=スキタイ人」を

 相手にする外交官を意味しているから佐賀は釋迦(シャカ)である。

 だがこれだけしか念頭にないと、サカはスキタイ人の居住地だということになり、

 それと向かい合う地点のサタの意味がわからなくなる。

 サカ~サタはセットになっていることで重要なのだから、

 その理由が理解できる語源を、伊都国の佐賀とは別に、

 みつけることが必要なのである。

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スキタイ・スキュタイ(9)



 スキタイ
 スキタイ

 《卑弥呼時代の国名語源一覧リスト

 国名  原音       ギリシャ語の原名(特記がないのは標準ギリシャ語)と意味

 狗邪韓  ku dzia kan   κυδιαω kudiao 独立して進む勇士(叙事詩)の国

 対馬    twad ma     τυ αδμησ tu admes 「慣れた君」の国

 一大    iet dad        ιη ie 女性 δαδdad 拡張者(イオニヤ語)の国

 末盧    mwat lio       μυαγρα muagra 鼠落としの罠(名詩選)の国

 伊都    ier to         ιη ie 女性 τοι toi 意思表示(共にイオニヤ語)の国

 不弥    pwo miiar      ΠΓΟΣ PUOS 初乳 μια mia 尊い(イオニヤ語)の国

 投馬    tu ma          τυμμα tumma 強打の国

 狗奴    ku no          κυνο kuno 犬・狗の国

  「旁国名」

 1 斯馬    sieg ma ∑ΙΜΟ∑ SIMOS 低い鼻・サカ(スキタイ)・タタール人の国

 2 己百支  sieg bak tieg ∑ιβλλιστησ Sibullistes 巫女・女予言者の信者の国

 3 伊邪    ier dzia ιη ie 女性(イオニヤ語) ZEIA 穀物・小麦の国

 4 都支    to tieg τοθεν tothen 「ここから!」(作詩用語) の国
  (都市牛利 todiangiugliad)τοτηνικαυτα totenikauta 最善に細分して書ける者)

 5 弥奴    miar no  ΜΙΑΙΝΟ MIAINO 染める・染料(ドーリヤ・アッチカ語)の国

 6 好古都  xog ko to ΚΟΚΚΟ∑ KOKKOS 穀物・種子の国

 7  不呼  pwo go ΠΥΟΣ PUOS 初乳 γονη gone (イオニヤ語)生産の国

 8  姐奴  tsiet no τιηρησ tieres 女性の冠(イオニヤ語) ΝΟΟΣ NOOS 良識ある

 9  対蘇  twad so τυιδε tuide 此処こそ σοσ SOS 汝の国

 10  蘇奴  so no ΣΟΡΟΣ SOROS 土器・陶棺(韓国語ではロはノ)の国

 11  呼邑  go iap γονη gone (イオニヤ語)生産 Ⅰασ Ias イオニヤ人の国

 12  華奴蘇奴ga no so no γανοω ganoo 輝きを作る ΣΟΡΟΣ SOROS 土器・陶棺の国

 13  鬼   kiweg κιε kie 「進め」という命令によって作られた国

 14  為吾  gwia ngo ΓΥΙΟΝ GUION 手先 γονη gone (イオニヤ語)生産の国

 15  鬼奴  kiweg no κιε kie 「進め」 NOOS ΝΟΟΣ NOOS 参謀 前進基地の国

 16  邪馬  dzia ma δι-αμαω diamao 斬り進む・剃り落す 戦士の国

 17  躬臣    kiung dien ΚΙΟΝ アトラスの柱 ΔΙΕΜΑΙ DIEMAI 平原の国

 18  巴利    pag liad      

 19  支惟    tieg dien τιηρησ tieres 鉢巻き υαλοσ ualos 宝石のをする国

 20  烏奴    o no ΟΝΟΣ ONOS ロバ・驢馬を飼う国

 21  奴国    no ma νομασ nomas 遊牧の民(イオニヤ語)の国

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2012年1月25日水曜日

スキタイ・スキュタイ(8)



 スキタイ
 スキタイ

 《倭=仏教国のキメ手は巴利国の存在

 この小見出しの巴利国はパーリ国と発音し、

 『魏書倭人章』の女王国の旁国の中の一国である。

 仏教の教典はすべて「パーリ=巴利」語で書かれているが、

 釋迦とその弟子とがパーリ人であったわけではない。

 釋迦はいうまでもなく

 「シャカ=シャケ=スキタイ」人であるからその言語はスキタイ語である。

 それをなぜパーリ語と呼ぶかといえば、パーリとは「聖なる経典」のことで、

 パーリ語とは「お経の用語」ということなのである。

 それを、一般の言語が国名を言語名にしているのでそれと混同して、

 パーリという人種や国があったように錯覚する人がある。

 インドには古代から現在に至るまでパーリ人かパーリ国も存在しない。

 それなのに日本列島の中には同じ名の小国が実在したのである。

 それは卑弥呼当時は南九州にあったが、

 後世に移動して定着した後身が

 「播磨=兵庫県の西半分」であることも確認できている。

 『魏書倭人章』と現存する播磨地方が実在の証拠であり異物なのである。

 同じことは「シャカ=シャケ=スキタイ」人という人種名の上にも起こつている。

 これは鹿児島語では「サカ=サケ」という発音になるから

 「佐賀(古音はサカ)」や「坂・大阪・坂井・堺・境」などは

 それから生まれた国名や地名の子孫なのである。

 このサカにはもう一つ「塞」の字がある。

 天狗の面で知られる猿田彦は「塞の神」と呼ばれる。

 彼は『記・紀』の天孫降臨に登場するがその容貌からみてモンゴリアン系統ではない。

 その「サカのカミ=塞の上」という国有代名詞は

 彼がスキタイ人の王だったことを表わしているのである。

 こうみてくると「巴利国」は彼がいた国でなければならない。

 だがそれは「塞国」ではなく、わざわざ「パーリ国」と呼ばれていたのである。

 このことは卑弥呼当時、釋迦と同じ言葉を知り、

 経典を正しく読めることが尊とばれて特別視され、

 新たな人種名=国名になっていたことを示している。

 これに似たことは現代でも見る。

 今の日本でも欧米人を特殊視し、尊敬の念をこめてみる人がいるのは、

 「自分にはなかなか覚えられず難しい言語を欧米人がスラスラ話す」からである。

 古代にはより以上に卑弥呼らにとってスキタイ人が貴重な存在だったことが、

 国の呼び名をパーリという特殊なものにしたのである。

 巴利国は、仏教と経典がなければ生まれなかった国名なのである。

 これはインド史・仏教史の側からみた

 「倭は仏教徒である」という動かぬ証拠である。

 あらゆる角度から見るという原則がどんなに大切か、おわかり戴けたと思う。

 倭人と古代仏教の問題を検討しているのであるから

 仏教史の側からも見るのは当然の常識なのだが、

 過去のヤマタイ論者はそんなととを考えもしなかった。

 私たちが議論する相手ではないことを忘れてはならない。

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2012年1月24日火曜日

スキタイ・スキュタイ(7)



 スキタイ
 スキタイ

 《奈良は倭国領になる前からの聖地だった

 その人々を征服して国民に加えた倭人は、本シリーズですでにお話しした通り、

 ギリシャ系文化と、

 バビロン系文化と、

 スキタイ系文化と、

 インド系文化とをもった

 人々の混成集団だつたが、この4者は本来みな古墳文化をもっていた。

 倭の五王は四国から近畿へ侵入して、

 近畿の先住イナ人を支配し、

 その力を殺ぐために人工の山である巨大古墳を作らせた。

 それが仏教思想のスメラ山スツーパを象(かたど)った前方後円墳だったのである。

 「古墳時代」という区別は時代と人種的な分類の役にはたたない。

 古墳には先住民イナ人やヤオ人のものと倭人のものとが、

 後世になると「同時に」入り混じっているからである。

 様式にさまざまな種類があるのはそのためで、すべてを「単一民族」のものとして、

 墳形や棺の形や材料などで時代区分をしてきたのもまたすべて誤りである。

 「聖徳太子は四天王寺を難波の荒陵(あらはか)につくつた」という記事が

 『日本書紀』[推古天皇紀]にある。

 これは「荒れ墓」であって、「陵」とは墓のことだということを証言している。

 太子は古い荒れ果てた墓地を寺の敷地にしたのである。

 これは現代でもあちらこちらで行なわれている墓地の移転や宅地化である。

 都市化が進むにつれて、聖徳太子時代(7世紀後半)でも、墓地はどんどん遠方へ移した。

 こうしたこともまた奈良に古墳群が集中している理由の一つなのだ。

 それと同時に太子は、父・用明天皇を河内の磯長陵に改葬している。

 天皇の遺体は、骨だけにしてから葬るので悪臭の心配はないから

 「安宿」の近くに葬ったのである。

 こうした改葬の仕方を「=カリモガリ、またはモガリ」という。

 それは本来は仮に埋葬して白骨化してから改めて本葬する方法であるが、

 それは大王家に限っていたのではない。

 好きな場所に本葬することを許されなかった大王家以外の人々にとって、

 高地にある遠い聖地に死者を運ぶのには、輸送手段のなかった当時は、

 少しでも軽くすることが合理的だった。

 これでわかる通り、奈良は倭国領になるはるかに前から、

 主として大阪平野先住民たちにとっても、

 好都合な地理条件を備えた埋葬聖地だったのである。

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2012年1月23日月曜日

スキタイ・スキュタイ(6)



 スキタイ
 スキタイ

「大化改新」関連年表

 紀元前(BCE=共通紀元前。「※BC=キリスト以前」は学術上は不適当)

   18 バビロニア第一王朝滅びるカリエン人(和人)の大移住はじまる。

 1523 中国に殷人の商帝国起こる。その繁栄は宝貝貨幣によって支えられていた。

 10世紀 中国。殷・商帝国滅亡周帝国に変わる。
      伝説では老子はこのころの人とされる。

  770 東周建国する
      7世紀後半北インドに第一次マガダ国ほか16大王国生まれる

  660 『日本書紀』はこの年を神武天皇の即位年とするが、
      それはこのマガダ国の誕生
      重なるから、なんらかの記録があったものと考えられる。

  440 マガダ国、ガンジス河流域統一

  322 チャンドラグプタ新・マガダ国建国マウルヤ王朝)。

  269 マガダ国アショカ王即位

  244 アショカ王による仏典結集
      東西南北へ仏教宣布団を派遣
      東はソナカ宣布団が開拓して、ミャンマーから、
      後にインド・シナ半島、インドネシア各島に及び、
      台湾から沖縄、そして九州に達した。
      この頃日本列島に水稲弥生土器が作られ始め、
      本州西部に銅鐸文化が広がる。
      インド以北はミジマ宣布団が開拓する。

  221 秦の始皇帝、中国を統一、即位。

  219 徐福、ホーライ島へ出発。このころ台湾がホーライと呼ばれている。

  210 秦の始皇帝、死ぬ

  160 地中海人種の月氏シャケ(サカ・スキュタイ)族の国土を占領
      シャケ族の移動始まる

  150 シャケ人、インド北部、ネパールヘ侵入

  145 司馬遷生まれる

  140 地中海人種の烏孫人、月氏の国土を占領、月氏の移動始まる

  140 漢の武帝即位

  121 漢の武帝、金人を手にいれて大神とする

   86 司馬遷死ぬ

   70 月氏、鳥孫の敦煌周辺を占領、仏教圏生まれる鳥孫の移動始まる
      鳥孫人の一部は長江を下だって、旧[呉]地域などに移住

      40年ごろまでに高句麗建国

  紀元後 (CE=共通紀元)
      『日本書紀』の紀年は誤りだが、比較に便利なように、そのまま配列した。

   26 後漢の建武二年、委奴国、後漢・光武帝に朝賀し印綬を受ける

   57 後漢の建武中元二年、委奴国、後漢・孝明帝・荘に朝賀し印綬を受ける

  168 後漢の孝桓帝死に、孝霊帝即位
      このころ初代卑弥呼、連邦女王に共立される。
      これが『記・紀』の神功皇后の初期の記事に一致し、葛城襲津彦も登場する。

  239 魏の景初三年、倭人連邦女王・卑弥呼・魏の帯方郡に使者・難升米らを派遣
      高句麗・山上王位宮、北鮮より敗走、行方不明になる。
      このころ粛真国がある。

  244 新羅始祖・赫居世邪馬壹国女王「壹與」と諸条件が一致)、沖縄で即位。

  247 魏の正始八年、狗奴国男王・卑弥弓呼素、邪馬臺を攻撃。老卑弥呼死ぬ。
      これが神武天皇の東征記事の一部になる。

  247 壹與(次の卑弥呼・日葉酢媛)を立てて内乱治まる。
      邪馬臺政権消え、邪馬壹国誕生。
      筆頭官「伊支馬」は山上王位宮で『記・紀』の神武天皇と垂仁天皇に一致。
      鹿児島県川辺郡(灌奴部)の知覧に古代新羅「鶏林」が都する。
      その後、福岡が白日別と呼ばれ『三国史記』[新羅本紀]の「斯盧」時代に一致する。

  413 東晋・義煕九年。倭王・賛あり。

  438 倭王・讃死に、弟・弥立つ。

  443 倭王・済、宋に遣使。

  460 倭王・輿、宋に遣使。
      倭王・興死に、弟・武立つ。

  478 倭王・武、宋に遣使、上表する。

  581 隋、建国

  592 崇峻天皇殺され、推古天皇即位。

  593 聖徳太子、摂政になる。

  608 隋・大業三年、隋の文林郎・斐清、俀国へくる。
      『日本書紀』の推古一六年。

  626 丙戌 蘇我蝦夷が大臣になる。

  628    隋ほろび、唐建国。

  629 己丑 舒明天皇、即位。

  630 庚東 岡本宮に移る。

  631 辛卯 百済王子・豊璋、人質に来る。

  637 丁酉 蝦夷そむく、討伐軍負ける。
 
  640 庚子 百済宮に移る。

  641 辛丑 舒明天皇死ぬ。
         「日本書紀」高句麗の伊梨珂須弥が大王を殺す。
         『三国史記』[高句麗本紀]泉蓋蘇文が王・建武を殺す。
         『三国史記』[百済本紀]百済王・武死ぬ。義慈王即位。

  642 壬寅 皇極天皇即位。百済大寺造営。高句麗・宝蔵王即位。
         大臣の子・蘇我入鹿、執政になる。

  643 癸卯 入鹿、山背皇子と一族を殺す。

  644 甲辰 軽皇子と中臣鎌子、団結。

  645 乙巳 大化改新。蘇我氏滅亡『天皇記』焼く。皇極退位、孝徳即位。
         大化と元号をつける。長柄豊碕宮に移る。

  646 丙午 『旧唐書』孝徳即位、元号は白雉。

  647 丁未 新羅・金春秋、人質としてくる。

  648 戌申 長柄豊碕宮に行幸する。

  649 己酉 冠位十九階を定める。蘇我石川麻呂一族滅ぶ。

  650 庚成 年号を白雉とする。

  651 辛亥 長柄豊碕宮に移る。

  654 孝徳天皇死ぬ。

  655 斉明天皇、再び天皇になる。

  658 阿倍比羅夫、蝦夷を討つ。有間皇子殺される。

  659 阿倍比羅夫、蝦夷を討つ。

  660 阿倍比羅夫、粛真を討つ。唐と新羅の連合軍、百済を攻める。

  661 斉明天皇、朝倉宮に移り、死ぬ。

  662 天智天皇即位。
  663 白村江の敗戦で百済滅ぶ。

  664 冠位二六階などを定める。筑紫に水城を造る。

  665 長門、筑紫に水城を造る。

  667 近江・大津宮に遷都する。高安城、屋島城、金田城を造る。

  670 長門、筑紫に城を造る。倭国、国号を「日本国」に変える。

  671 近江宮焼ける。天智天皇死ぬ。

  672 弘文天皇即位。壬申の乱。弘文天皇殺され、天武天皇即位。

  764 淡海三船、天皇の漢風諡号を作る。

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2012年1月22日日曜日

スキタイ・スキュタイ(5)



 スキタイ
 スキタイ

 《四神のルーツはシンドゥ教

 五彩圏は、いうまでもなく方角(方位)の「四神の色の知識」がなくては生まれない。

 それは先にお話ししたようにインドの宗教文明の産物であるが、

 日本では間違って四神というのは中国生まれだと思いこんでいる人がいるので、

 もう少し詳しくお話ししておこう。

 宇宙を支配する大神ビシユヌーは、

 銀河やオリオン座大星雲(銀河宇宙)を

 思わせる巨大な七つの頭の竜「アナンタ」(『ヒミコ』参照)に乗っている。

 そしてベッドには「シェーシヤ竜」を使う。

 彼は太陽神だから竜も東から出てくる。

 竜は

 インド語のシャカ、

 ネパール語のシヤケ、

 ギリシャ語のスキタイ、

 そして中国・日本語のサカ人に特有のトーテムなのである。

 仏教を守護する八大竜王や、豊玉姫や、スサノオの大蛇退治も、

 ジークフリートの竜退治も皆これがもとになっている。

 南の朱雀が

 ビシュヌーの旅行用の航空機・金翅紗鳥=カローラ・ガルーダから変わったことは、

 つい今しがた説明したが、同じように竜も中国で誤解されたもので、

 本当は中国にはいないがインドにいるライオンが、

 ビシュヌーそのものの変身「人獅子」として崇拝されているものなのである。

 このことは中国製といわれる3~4世紀の銅鏡の鏡背図を見ればわかる。

 それは虎ではなくインドの人獅子の顔をもっている。

 中国の四神の北の「玄武」は、亀と蛇の二本だてになっている。

 これが中国の四神はインド起源であることを物語っていいる。。

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2012年1月21日土曜日

スキタイ・スキュタイ(4)



 スキタイ
 スキタイ

 《「宿弥」はスキタイ王いう称号

 ツングースというのは「東胡子(とうこし)」という当て字の中国東北部訛りである。

 その訛りをとって日本語に直せば「ツクシ」になる。

 筑紫と書けば北部九州の古名である。

 これは「チクシ」と発音されるが、同じ発音のチクシ港というのが、

 シベリアの北の端にある。

 北東シベリアには「チュクチ」人と呼ばれている人々がいる。

 もちろんこれもチクシの発音変化の一つだ。

 このチクシの発音は沖縄語の訛りにも一致する。

 そうだとすると、本土語では「チはキ」に、「シはチ」になるから、

 「菊池」なども同じ名前の方言化だとわかる。

 この「シユク」という発音には「宿」という当て字もピッタリである。

 この字は日本では「スク・スキ」という発音にも使われる。

 武内宿祢は「スク」のほうで、

 鹿児島県にある指宿は「イブスキ」と発音するから「スキ」のほうである。

 このことはこれまで見てきた

 「シユク・チュク・チク」は「スク・スキ」でもあったということである。

 この「スク・スキ」はギリシャ人に

 「スキタイ」と呼ばれた「サカ・シヤカ」人の発音変化による呼び名でもある。

 結局、ツクシもチクシもチュクチもシュクシンも、同じ一つの名の方言化で、

 すべて同じ集団「スキ・タイ=スキ・人」と

 ギリシャ人が呼んでいた人々の後身だったのである。

 ここまでわかると、

 「なぜ、天皇の名乗りに[宿祢]という称号がついているのか?」という

 先に疑問のまま残った不思議な允恭天皇の名の謎が解ける。

 チュクチは「宿+チ」、

 「宿=スク=スキ」+「チ=ti=タイ」=スキタイ人ということだった。

 「宿祢」とは「スクの・根=タラシ=王」、

 すなわち「スキタイ王」という名乗りだったのである。

 この宿祢・足尼という称号は有名な武内宿祢をはじめ多くの名乗りについている。

 これは「倭王」と同じくその直接支配集団を示しているのである。

 また北部九州には継体天皇当時、

 [筑紫の君・石井(イワイ)]という王がいて継体に敗れて逃げる。

 これも同じ発音の「祝(イワイ)」と書くと、

 それは「祝(チュク)」という中国音を持っている。

 [筑紫=祝氏=石井氏]や、結局一つの名に対する幾つもの当て字に過ぎず、

 その語源はチクシだったのである。

 この名前と同じことは武内宿祢一族などほかにも多く見られるので、

 当時、その地域に東胡人が住んでいたという事実を証明している。

 継体天皇に追われる以前の5世紀は、東胡人がそこで栄えていた時代である。

 そしてまた、筑紫の国と呼ばれた地域は「白日の国」だったと、

 『古事記』の[国生み]の部分が記録している。

 「白日=シラヒ」は、多くの伝承によって、

 その福岡地方に古新羅があったことを物語っているから、

 新羅の使者「金波鎮漢紀・武」はそこから使者としてやってきたのである。

 なにもツングース人だといってビックリすることはない。

 これが第4のキーだ。

 またこのことがわかると、

 [欽明(きんめい)天皇紀]の元年九月に、

 天皇が難波の「祝津宮」へ行幸したという記事があるが、

 この祝津の正しい発音がわかる。

 それは漢音で読めば「祝=シュク」「津=シン」で「シュクシン」。

 これは『魏書倭人章』のある『三国志』[東夷(とうい)伝]に出てくる

 「粛真(シュクシン)」とまったく同じ発音になる。

 その位置は『ジンム』で詳しくお話しした

 高句麗王・位宮が魏軍に追われて逃げた烏丸(ウカン)、沃狙(ヨウソ)のつぎの地域で

 東は大海=日本海に面していると書いてある。

 今のロシアの沿海州で、そこには今もチュクチの人々が住んでいる。

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2012年1月20日金曜日

スキタイ・スキュタイ(3)



 スキタイ
 スキタイ

 《「角がある人」はヒミコのこと!

 読者はもうワカヒコがソナカであることは、よくご存じである。

 ソナカの別名には「角我阿羅斯等」というのがあったこともご記憶だと思う。

 そして韓国の大統領の姓などで、「ラ行」の発音が「ナ行」になることもお話した。

 こうなる。

 ツヌガアラシト (シト=ヒト=人)  日本語    角我阿羅斯等
 ツルカールニン (ニン=ヒト=人)  ペルシャ語  Zulkarnein

 そして面白いことに、このツルカールニンも、

 やはり「角(つの)のある人」の意味をもったコトバなのだ。

 それはアラビア語でドゥル・カルナイン、

 正確には「二本角のある人」という意味だ。

 ペルシャ語は発音をまねただけで意味はない。

 これまで語源だと信じられていた、そのアラビア語も、

 実はほかのコトバに対する「当て字」だったのである。

 そのもう一つ前のコトバはイランからアゼルバイジャンにかけて、

 紀元前1000年前後に発達した青銅器文化をもち、

 濃厚な遺物を残したルリスターン人のものだった。

 さらに、そこから東西に分かれて

 東は日本の銅鐸文化を展開した弥生人の一派になり、

 西ではハンガリー人として今も残り、

 さらに北上して有名なアッチラ大王を生み、今はフィンランド人として定着した。

 あの釋迦を出した集団

 「ギリシャ人にスキタイと呼ばれた人々のグループ」のコトバだったのである。

 それは前にもご説明したフィン・ウゴル語だ。

 そのコトバでは「tulk=通訳」「kalu=物ごと・要件」「nain=女性」である。

 「ツルカルナイン」とは「重要なことを通訳する女性」、簡単にいえば「女通訳」であるが、

 少し違う点はふつうの通訳は「ナンでもカでも」通訳するのが仕事だから、

 ただ「tulk」だけで充分なのである。

 それなのになぜ、こんなにゴテゴテとコトバを並べたのだろう?

 それは、当時のその地域の王たちが残した粘土板の文書を見れば分かる。

 そんな「名乗り」は王や貴族たちが好んでつけた「称号」なのだ。

 その「物ごと・要件」といったコトバは、人間が話すコトバではない。

 それは「神のコトバ」なのである。

 それを人間に分かるように、「通訳]する「女性] 。

 それが「ツルカルナイン」の本当の意味だったのだ。

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