ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2012年3月28日水曜日
マレー語に関する章(42)酷似している東南アジアと古代日本の葬制
《酷似している東南アジアと古代日本の葬制》
「酷似している東南アジアと古代日本の葬制」
日本列島の場合は恒常的に西風が吹く、
当然、墓地をつくる方角は居住地の風下にあたる東の地域である。
奈良高原は大阪平野からみて、
あらゆる点で集団墓地としての適性を備えていた。
だから「倭の五王」が大阪に進出する前から、
そこは河内湖と大阪湾の影響で高温多湿な大阪平野と沿岸の先住民たちの
集団墓地地域だったのである。
奈良盆地は高地であるというだけでなく、
その地理条件によって平均気温が低く涼しい。
それは死者を高いところに安住させるという宗教思想だけでなく、
急激な腐敗を防いで、
死体を鳥獣や昆虫に食べさせて骨だけを残すという、
日本列島の先住民イナ(委奴・犬・因・印・稲・猪名・伊那=殷・インド)人が、
中国に古代型帝国を築く前からもっていた、
超古代インドの知恵による伝統的処理法にも最適の土地だった。
「タイ北部にある亀墓」
亀墓は沖縄にある墓として知られているが、同じ形をした墓が、
タイ北部の人里はなれた場所に点々と見られる。
中国人華僑たちの墓である。
沖縄のものも宋の時代に中国から来た36姓と呼ばれる支配者がもちこんだもので、
近世の沖縄は華僑に侵略され占領されていたのである。
亀墓のルーツはその形態でわかるようにギリシャのアトレウス古墳の系統。
卑弥呼と血縁のある南中国・呉の孫権らがギリシャ系だったことの傍証。
烏孫=ウースン=呉孫=大隅とつながり、
ヤタ烏(カラス)=アレクサンドロスともつながる。
(『ジンム』参照)
「タイ土着の山地住民の葬制」
タイの場合をみても土着の山地住民の葬制は貧しく、
こんなに布を多く使っているのは珍しい方だが、
『延喜式』の天皇陵の祭りに布を用いるのと同じ習俗である。
このタイの2種類の墓の場合も、ともに必ず集落の東北に遠く離れた場所を選んで、
臭を避ける工夫をしている。
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