2012年3月18日日曜日

マレー語に関する章(32)『日本書紀』は事実をスリ替えた

『日本書紀』は事実をスリ替えた

『日本書紀』は事実をスリ替えた

では「81」はどうなったか?  それもその部分の最初にある。

「天皇崩。時に年81」と書いてある。

これはどうしても同じ記事なのだ。  国民は

では「81」はどうなったか?

それもその部分の最初にある。

「天皇崩。時に年81」と書いてある。

これはどうしても同じ記事なのだ。

国民は昔話を語り伝えるから『日本書紀』に書かないわけにはいかない。

しかしありのままには書けないから「あれはこういうことだったのだ」と、

まるで正反対の出来事として編集した。

人々が記憶している81という数は、

「本当は天皇の年齢だったのだ」とスリ替えてゴマカシてしまったのである。

この「記事の食い違い」の問題で、

『古事記』が書いた事実が『日本書紀』には都合が悪かったことがわかった。

では何が、どう、都合が悪かったのか?

それを徹底して追及してみよう。

この間題の第1のキーは、

「盟神探湯」だ。

これは法制史で「神判」と呼ばれるもので、

チュートン人の裁決法である。

彼らは熱湯や火に手を入れ、真赤に焼いた鉄斧などを握らせ、

毒を飲ませ、闘わせて、火傷や死をまぬかれた者は無罪だとする法律を使った。

これはマレー語にもなり、

アジア各地の和人の子孫も伝えているのを、私(加治木義博)自身、現地で確かめてきた。

チュートン人は英語でウエールズ

アングロサクソン語でワラスと呼ばれることでおわかりのように、

英国人の祖先の一部である。

紀元前2~3世紀に中央ヨーロッパに広がった。

また、その「斧」が証明するように、

彼らはその鉄器と神判をハッティ人(ハチ=ハットウ=ヒッタイト)から受け継いだ。

この人々も「和人+倭人」を構成していたことは、

『ヒミコ』でお話ししたとおりである。

彼らはヒミコ政権よりも早く、カリエン人に混じって日本列島にやってきていた。

そして朝鮮半島以北にまで広く居住していたことも、

お話ししたとおりである。
「倭人」は仏教徒だったから<ウワイ>と呼ばれたのであって、

その信者が「倭国」をつくつていた。

仁徳天皇系皇朝は、もちろん仏教徒だったから「倭王」と呼ばれた。

五人の王の内、少なくとも讃・珍までは正真正銘の「ウワイ王」だった。

その倭王のあとを継いだ允恭天皇が、

その仏教教主としての立場を捨てて、

倭国天皇の第一の資格であり至上命令でもある「慈悲」を忘れて、

自分がその法の施行者である祭政一致のインド法にも背いて、

仏敵である野蛮な連中が使う「盟神探湯」という無慈悲な悪法を、

なぜ病気が治る早々、急いで使う必要があったのか?

倭王・讃の仁徳天皇当時から

「倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」

六国を支配し、倭王・済の反正天皇の時に加羅が加わって、

次の倭王・興が継いだ時には何も変動などない。

それなら何も今さら「氏姓を正す」必要などあるはずがない。

この第一の問題の結論は、

その時の「天皇の身の上に何か変動があった」ということ以外にない。

言語復原史学会
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《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状昔話を語り伝えるから『日本書紀』に書かないわけにはいかない。  しかしありのままには書けないから「あれはこういうことだったのだ」と、  まるで正反対の出来事として編集した。  人々が記憶している81という数は、  「本当は天皇の年齢だったのだ」とスリ替えてゴマカシてしまったのである。  この「記事の食い違い」の問題で、  『古事記』が書いた事実が『日本書紀』には都合が悪かったことがわかった。  では何が、どう、都合が悪かったのか?  それを徹底して追及してみよう。  この間題の第1のキーは、  「盟神探湯」だ。  これは法制史で「神判」と呼ばれるもので、  チュートン人の裁決法である。  彼らは熱湯や火に手を入れ、真赤に焼いた鉄斧などを握らせ、  毒を飲ませ、闘わせて、火傷や死をまぬかれた者は無罪だとする法律を使った。  これはマレー語にもなり、  アジア各地の和人の子孫も伝えているのを、私(加治木義博)自身、現地で確かめてきた。  チュートン人は英語でウエールズ。  アングロサクソン語でワラスと呼ばれることでおわかりのように、  英国人の祖先の一部である。  紀元前2~3世紀に中央ヨーロッパに広がった。  また、その「斧」が証明するように、  彼らはその鉄器と神判をハッティ人(ハチ=ハットウ=ヒッタイト)から受け継いだ。  この人々も「和人+倭人」を構成していたことは、  『ヒミコ』でお話ししたとおりである。  彼らはヒミコ政権よりも早く、カリエン人に混じって日本列島にやってきていた。  そして朝鮮半島以北にまで広く居住していたことも、  お話ししたとおりである。  「倭人」は仏教徒だったから<ウワイ>と呼ばれたのであって、  その信者が「倭国」をつくつていた。  仁徳天皇系皇朝は、もちろん仏教徒だったから「倭王」と呼ばれた。  五人の王の内、少なくとも讃・珍までは正真正銘の「ウワイ王」だった。  その倭王のあとを継いだ允恭天皇が、  その仏教教主としての立場を捨てて、  倭国天皇の第一の資格であり至上命令でもある「慈悲」を忘れて、  自分がその法の施行者である祭政一致のインド法にも背いて、  仏敵である野蛮な連中が使う「盟神探湯」という無慈悲な悪法を、  なぜ病気が治る早々、急いで使う必要があったのか?  倭王・讃の仁徳天皇当時から  「倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」の  六国を支配し、倭王・済の反正天皇の時に加羅が加わって、  次の倭王・興が継いだ時には何も変動などない。  それなら何も今さら「氏姓を正す」必要などあるはずがない。  この第一の問題の結論は、  その時の「天皇の身の上に何か変動があった」ということ以外にない。    言語復原史学会   言語復原史学会  『参照ブログ』  古代メソポタミア  ウワイト(倭人):大学講義録  ウワイト(倭人)大学院講義録   古代史ブログ講座  歴史徒然  ネット歴史塾  オリエント歴史回廊(遷都)      古代史の画像   「終日歴史徒然雑記」  「古代史キーワード検索」           ひねもす徒然なるままに    古代史つれづれ  《参考》  古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果  最新の考古学的発掘の方法  存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

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