2012年3月17日土曜日

マレー語に関する章(31)京都に移った邪馬臺国



 《京都に移った邪馬臺国
 「京都に移った邪馬臺国

 今も「民族」という忌まわしい用語で呼ばれているそうした

 「集団の名」は、どのようにして名づけられたものなのだろう?

 世界の多くの文化人類学者の研究で一致した答えは、

 その集団の人称代名詞の第一人称、

 日本語でいえば「私・僕・おれ」などを、

 その集団の呼び名にしたものが圧倒的に多いという。

 最も手近な例である私たち日本人は、

 日本列島という「地域」に、

 もとは世界中から移住してきた先祖を持つが、

 今は同じ地域に生活する「地域集団」であって、

 移住後に複雑に混血してはいるが、

 さまざまなルーツからの遺伝因子を持っている。

 日本人という名は「国籍集団」の名であって、

 その個々の人の血縁的なルーツは意味していない、ということになる。

 その日本人が学校教育によって

 平均的に使っている言葉の「ワタシ」を考えてみると、

 日本語のいちばん古い型を残している

 沖縄方言では「シ」を「チ」と発音するから「ワタチ」。

 これは平安時代に使われていた

 「我達」

 「吾達」の「ワ達」と同音で、

 「ワ(第一人称)」に「達(複数を意味する語尾=英語のSと同じもの)」がついた

 人称代名詞・第一人称・複数が、現代では第一人称・単数に変化したものだとわかる。

 私たちは今も平安時代当時のまま「ワ」という第一人称を使っているのだ。

 では「我達」「吾達」と書いていた人々は、どういう人々だったのだろう?

 問題のキーは、彼らが自分たちを「ワ」という第一人称で表現していた、というところにある。

 だとすると、当時までの日本列島では、

 「ワ」という集団名は「倭人」か「和人」しかない。

 それが書かれた平安時代は、

 「倭」を「ワ」と発音するようになった奈良時代より後だから、

 その「倭」であった可能性が高いのだ。

 だが京都は日本の都。

 沖縄は当時は異国と考えられていた最も遠い辺境だった。

 その双方で同じ言葉が使われていたということは奇妙にみえるから、

 それは「他人のソラ似」にちがいないと思われるだろう。

 だがその点を、京都方言を細かく分析して研究してみると、

 今も沖縄語の影響を強く残している。

 それは歴史を知ると当たり前のことだったのである。

 なぜなら古代にその地方を占拠していた

 「太秦(うずまさ)」氏は、その文字を音読するとタイシン氏で、

 マレー語の「大海」氏という意味になり、

 沖縄読みすると「ウチヌ」で、

 「沖縄(うちぬ)」という名前そのものになる。

 そしてその地域は古くは「宇治・山代」という名で呼ばれていた。

 これは続けて読むと

 「大ウ 邪ジャ 馬マ 臺ダイ」

 と同じ発音になることは、

 それが鹿児島県の隼人町から伊勢の宇治山田に至る

 邪馬臺国の歴史を物語る重要な地名文化財なのだと、

 『ヒミコ』でお話しした。

 これで沖縄を出発した邪馬臺人が、

 鹿児島県を経てどこに移動したか、正確にわかったのである。

 京都人の出身地は沖縄だったのである。

 邪馬臺人はまちがいなく「倭人」だった。

 だからこそ、

 その京都人が、その京言葉で自分のことを「ワタチ」といっていたのである。

 そして都が京都に移って、

 そこの方言が標準語になると「ワタチ」も広まていった。

 その語尾が託って「ワタシ」になったものが、

 標準語になって全国で使われるようになったのである。

 私たちは「私」という字を、

 はるか古代から「ワタシ」と読んでいたような錯覚があるが、

 本当はそれにも「邪馬臺国の歴史と悲劇」がこもっていたのである。

 そしてそれは他の方言の第一人称でもまた同じだったのである。

   言語復原史学会
  言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

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