2012年1月21日土曜日

スキタイ・スキュタイ(4)



 スキタイ
 スキタイ

 《「宿弥」はスキタイ王いう称号

 ツングースというのは「東胡子(とうこし)」という当て字の中国東北部訛りである。

 その訛りをとって日本語に直せば「ツクシ」になる。

 筑紫と書けば北部九州の古名である。

 これは「チクシ」と発音されるが、同じ発音のチクシ港というのが、

 シベリアの北の端にある。

 北東シベリアには「チュクチ」人と呼ばれている人々がいる。

 もちろんこれもチクシの発音変化の一つだ。

 このチクシの発音は沖縄語の訛りにも一致する。

 そうだとすると、本土語では「チはキ」に、「シはチ」になるから、

 「菊池」なども同じ名前の方言化だとわかる。

 この「シユク」という発音には「宿」という当て字もピッタリである。

 この字は日本では「スク・スキ」という発音にも使われる。

 武内宿祢は「スク」のほうで、

 鹿児島県にある指宿は「イブスキ」と発音するから「スキ」のほうである。

 このことはこれまで見てきた

 「シユク・チュク・チク」は「スク・スキ」でもあったということである。

 この「スク・スキ」はギリシャ人に

 「スキタイ」と呼ばれた「サカ・シヤカ」人の発音変化による呼び名でもある。

 結局、ツクシもチクシもチュクチもシュクシンも、同じ一つの名の方言化で、

 すべて同じ集団「スキ・タイ=スキ・人」と

 ギリシャ人が呼んでいた人々の後身だったのである。

 ここまでわかると、

 「なぜ、天皇の名乗りに[宿祢]という称号がついているのか?」という

 先に疑問のまま残った不思議な允恭天皇の名の謎が解ける。

 チュクチは「宿+チ」、

 「宿=スク=スキ」+「チ=ti=タイ」=スキタイ人ということだった。

 「宿祢」とは「スクの・根=タラシ=王」、

 すなわち「スキタイ王」という名乗りだったのである。

 この宿祢・足尼という称号は有名な武内宿祢をはじめ多くの名乗りについている。

 これは「倭王」と同じくその直接支配集団を示しているのである。

 また北部九州には継体天皇当時、

 [筑紫の君・石井(イワイ)]という王がいて継体に敗れて逃げる。

 これも同じ発音の「祝(イワイ)」と書くと、

 それは「祝(チュク)」という中国音を持っている。

 [筑紫=祝氏=石井氏]や、結局一つの名に対する幾つもの当て字に過ぎず、

 その語源はチクシだったのである。

 この名前と同じことは武内宿祢一族などほかにも多く見られるので、

 当時、その地域に東胡人が住んでいたという事実を証明している。

 継体天皇に追われる以前の5世紀は、東胡人がそこで栄えていた時代である。

 そしてまた、筑紫の国と呼ばれた地域は「白日の国」だったと、

 『古事記』の[国生み]の部分が記録している。

 「白日=シラヒ」は、多くの伝承によって、

 その福岡地方に古新羅があったことを物語っているから、

 新羅の使者「金波鎮漢紀・武」はそこから使者としてやってきたのである。

 なにもツングース人だといってビックリすることはない。

 これが第4のキーだ。

 またこのことがわかると、

 [欽明(きんめい)天皇紀]の元年九月に、

 天皇が難波の「祝津宮」へ行幸したという記事があるが、

 この祝津の正しい発音がわかる。

 それは漢音で読めば「祝=シュク」「津=シン」で「シュクシン」。

 これは『魏書倭人章』のある『三国志』[東夷(とうい)伝]に出てくる

 「粛真(シュクシン)」とまったく同じ発音になる。

 その位置は『ジンム』で詳しくお話しした

 高句麗王・位宮が魏軍に追われて逃げた烏丸(ウカン)、沃狙(ヨウソ)のつぎの地域で

 東は大海=日本海に面していると書いてある。

 今のロシアの沿海州で、そこには今もチュクチの人々が住んでいる。

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