2012年1月4日水曜日

「光華明彩」(4)



出典:日本書紀 巻第一 神代上 第五段一

光華明彩

卑弥呼の一生

ヒミコはイザナキのミコトの子として沖縄で生まれた。

地中海人種の子孫で「光華明彩」だったので、宗教人が適していると、

アショカ王の仏教宣布団の来ている土地ウテナ(臺、金の国、今の台湾)へやられ、

ピューティア大祭としてギリシャ伝来の神託を修行した後、村の女神になっていたとき、

ソナカ王子に愛されて結婚したが、その後、家出して沖縄へ帰ってしまう。

王子は沖縄を仏教国にするといって、そのあとを追って沖縄へ渡ったが、

ヒミコの入りムコとして、そこの王になったまま国へ帰らず報告もしない。

台湾のアショカ王国の国王は心配して、

無名キジ(毛人)に様子を見に行かせたところ、それを王子は矢で射殺してしまう。

ほかの牒報員(スパイ)がその矢を持ち帰って国王に見せたので、

ソナカに殺されたことを確認した国王は、

軍隊を派遣して、裏切り者としてソナカを殺す。

その大乱が終わったあと、ヒミコは夫の跡をついで女王になり、

次いで倭人(アショカ教徒)国連邦の王に選出される。

以後数十年、その勢力は九州全土に広がり、彼女は九州北部にまで移動し、

宮殿の奥深くにいて弟を対外接触者にして、巧みに祭政一致の神託政治を行ってきたが、

中国が戦乱の三国時代に入り、歴戦の後、諸葛孔明(しょかつこうめい)が死んで

蜀(しょく)が無力化すると、魏(ぎ)は今度は倭(うわい)人の保護者で

呉(ご)の属国の「燕(えん)」の支配者・公孫(こうそん)氏を不意打ちして滅ぼし、

朝鮮半島を支配下においてしまった。

ヒミコはそれを鏡による光通信で、いち早く知り、都を安全な場所に移した。

それが中国の会稽(カイケイ)の真東に当たる今の鹿児島県隼人(はやと)町である。

彼女はそれと同時に、ただちに使節を魏の帯方郡に送り、

魂の都に案内させて親善を求めた。

魏の政府は大喜びして、

ヒミコが注文した鏡など大量の贈りものを届けてくるなど外交はうまくいっていた。

しかし女王国に属さない南の島の狗奴(くの)国王が、戦争をしかけてきた。

彼女は帯方郡に援助を頼んだが、仲裁役の張政がやってきたとき彼女は死んだ。

大規模な墓が作られ、100人以上の人が殉死させられた。

そのあと男王が連邦の王になったが、全国的に反対者がたち上がって内乱が続いた。

そして結局、13歳の壹與(いちよ)を女王にすることで、やっと戦いが終わった。

ところがわが国の正史『日本書紀』と、

それと同時に編集されたとされている『古事記』は、このヒミコとイチヨを、

混同して「天照大神」と「神功皇后」にしている。

この事件の詳細は、加治木義博著

『ヒミコ・プロブレム=黄金の女王・卑弥呼』[ロングセラーズ刊・1992年]

(長くて不便なので、この本では『ヒミコ』と略称する)の続編である

この本で明らかになるまでは、まだハッキリしていないし、

いまだに奈良の唐古遺跡から出た土器片の楼閣の絵が、

「邪馬台国近畿説」の有力な証拠だ、などと報道されたりするので、

余計ややこしくお感じだと思う。

そうしたモヤモヤもこの本でイッキに吹き飛ばしていただきたい。

台湾に現存すろギリシャ系倭人

後からきた侵入者に追われて山地に住んでいる人々の中には写真のような人たちがいる。

その容貌、服装、家屋、言語、土器など実に多くのものが、

その古いルーツがインド経由の地中海人だったことを示している。

「臺」はウティナで沖縄のこと。

「湾」はワ二で「倭人」の唐代以後の読み方。

ここはその頃[小琉球]と呼ばれていた。

[台湾]とは[琉球人の国」という意味なのだ。

そして『ヒミコ』でお話ししたヒメゴソとオオヒルメが

「太陽の光で身ごもった」というあの『阿具沼伝承』も『かぐや姫』の原話も

両方とも台湾に現存するお話の中にある。

またカリエンの人たちの都は今も花蓮(カリエン)港と呼ばれ、

鬼道=アショカ仏教」の子孫も現存している。

光華明彩

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