2012年4月23日月曜日

マレー語に関する章(68)『日本誕生』は卑弥呼から



 《『日本誕生』は卑弥呼から
 「『日本誕生』は卑弥呼から

 「巴利国」

 パーリ(インド)

 -ハリー(アフガニスタン北西部)

 -パリー(インド北東部)

 -パーリス州(戦前のマレー半島の州)

 -バリ島(インドネシア)

 -バリワグ(フィリピン)

 -バリンタン(フィリピン北部)

 -パラパグ(フィリピン・サマール島)

 -巴利国(倭国)

 では巴利国はその後どうなったか。

 それがハリマと呼ばれて、

 今の兵庫県の西半分になったが、

 それ以前にもっと大切な役割を果たしている。

 マレー語でハリは日々のこと、

 太陽はその目(マタ)だとみて「マタハリ」というから、

 卑弥呼とは、「ピー・ミヤル・グァ」の発音どおり沖縄語で「日見やる子→日宮后」で、

 古語では日の神(ヒヌカン)=ビルカナ仏=蛭子の仏=大日如来。

 これが天照大神の真意だったのである。

 巴利国はハリマ=ハリミャ=日宮。

 卑弥呼=日宮后とは巴利国女王という名乗りなのだ。

 卑弥呼は巴利国か播磨以外の国の女王では絶対にない。

 邪馬臺やヤマトどころか邪馬壹にも居るはずがない。

 今の隼人町と国分市にまたがる姫木山はどうなるか。

 沖縄語の「目」はミだから、

 沖縄語人が「日目子」と当て字していたものを、

 鹿児島人が後世にヒメコと発音して姫木(ヒメコ)を当て字に選んだのだ。

 この日の神の国が、

 日の国の都=日の本とよばれたのはごく自然で、

 唐代までの小国・日本は、こうして誕生したのである。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月22日日曜日

マレー語に関する章(67)日本語はなぜ清濁がアイマイか



日本語はなぜ清濁がアイマイか
 「日本語はなぜ清濁がアイマイか

3世紀当時の倭人がP音のある言葉を使っていたことは、

カールグレンの漢魏音復元研究で、

帯方郡使の使った倭人の名詞に対する当て字の中の、

巴= Pag、卑= Pieg、柄=piang、不= pwo などが、

P音で始まっていることで充分立証されているし、

また沖縄県の八重山語では、

今もはっきりP音が聞きとれる。

それだけでなく、

私たち自身も何気なく日常に p 音と h 音、f 音を変換しながら使っている。

「一歩、二歩、三歩」や

「一把、十把」、

「皮膚、脱皮」、

「父母、実父」、

「富国、貧富」、

「派兵、出兵」などである。

また「イツ」と「イヅ」が同じだという清音・濁音の問題も、

『百人一首』の取り札(ふだ)には一字も濁点が振ってないのに、

今では濁音混じりで読み上げるし、

いわゆる方言によっては清濁が逆に聞こえるものまである。

それに加えて発音者の歯の噛み合わせが悪いと、

咀嚼(そしゃく)筋や側頭(そくとう)筋が邪魔をして

不完全発音(Lisp=リシュプ)になり、

葉擦れのような濁音混じりの舌足らずの幼児語のように聞こえる。

また沖縄語は、

ともすればマミムメモをバビブベボ化する癖(くせ)があるが、

これは対岸の中国福建省の強い濁音語の影響で、

その仲間は特にベトナム語で鼻濁音が激しい。

日本語の母語の一つであるマレー語もまた、

間違いなく沖縄~日本語の清濁混乱の原因になっている。

言語復原史学会
言語復原史学会
言語復原史学会

『参照ブログ』
古代メソポタミア
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録 
古代史ブログ講座
歴史徒然
ネット歴史塾
オリエント歴史回廊(遷都)    
古代史の画像 
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」         
ひねもす徒然なるままに  
古代史つれづれ

《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月21日土曜日

マレー語に関する章(66)巴と巴利とバーリとPとポセイドン



 《巴と巴利とバーリとPとポセイドン
 「巴と巴利とバーリとPとポセイドン

 隼人町が巴利国だった多くの証拠のうち最大のものは、

 全国に3万以上ある八幡社の発祥地で、

 総本家の大隅八幡宮が現存することである。

 八幡の象徴は「三つ巴紋」で、巴は世界中で水神の象徴として使われているが、

 三つ巴(みつどもえ)は大海の激しい渦流を表現しており、

 中世に中国沿岸から東南アジアを荒らした

 海賊・八幡船(バハンセン)の守護神・八幡大菩薩の旗印も、

 八幡が海神だった証拠で、

 マレー語で「凶悪・無残」を

 「 jahat =ヤハト=八幡(ヤハタ)」

 「 akahia アカイヤ」などというのも

 その恥ずかしい遺物である。

 隼人族は「海幸」だから、

 中国語で海は「ハイ」、海人と書いても「ハイト」と読める。

 しかし中国の海神は「陽侯(ヨウコウ)」だから中国系ではない。

 北京語は日本から中国東北区へ移住した

 古代南九州人の言語が基礎になっているから、

 巴利人から隼人、海人と進行した当て字が「海=ハイ」という発音を生んだ。

 また巴と巴利が同じ巴の字で表現され、

 パーリの頭文字Pが巴の類型なのも偶然ではない。

 古代日本の海神はポセイドンだった。

 その神名が「百済」という国名を生んだ理由は、

 沖縄ではボセイドンはフジイヅンとしか発音できないが、

 このフジが鹿児島ではホゼと変わる。

 これに対する当て字か百済(ホゼ)で、

 残りのイヅンが郡や市の名に残る「出水(イヅン)」なのである。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月20日金曜日

マレー語に関する章(65)山幸と邪馬壹国とは全く同じもの



 《山幸と邪馬壹国とは全く同じもの
 「山幸と邪馬壹国とは全く同じもの

 「邪馬壹国 1」

 その変化は狗奴国を考えると一目瞭然だ。

 卑弥呼時代は「不属 女王」だったが、革命後は不属どころか、

 女王国の中心勢力になったからである。

 この勝者敗者の対比は、すでにご存知のとおり神話の『海幸山幸』として記録されている。

 弟の山幸の名を復元してみると、「山」は「邪馬」の唐代の発音変化後の当て字だとわかる。

 では「幸」とは何か?。

 この神話の舞台は、日向神話という分析名でも明らかなとおり南九州である。

 南九州では「幸」 は「サッ」と発音する。

 このサッは古代国名の薩摩のサツだとみると、

 サツはマレー語の「1」が語源だとわかっているから「壹」と書いても向じもの、

 すなわち「山幸」と「邪馬壹」とは全く同じものを指す名詞で、

 山幸はマレー語系の人たちが呼んだ国名であり王名だった。

 そのフルネームは山幸彦だから、張攻なら邪馬壹卑狗と当て字したであろう名乗りで、

 山幸彦は後世の日本式当て字、両者は全く同じものである。

 この名の歴史は、まず247年に邪馬壹が生まれ、当時はジャマ イエッと発音していたが、

 その後、マレー語系の住民たちによってジャマ サッと呼び方が変えられ、

 その後さらに神話化した。

 その時期は「邪馬」が「ヤマ」と唐音になっているので8世紀前後だったことがわかるし、

 その神話化地域はサッをサチと発音する地域、近畿圏だったことも立証できる。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月19日木曜日

マレー語に関する章(64)dzia ma に一致する謝名(ぢゃな)と王称地名



 《dzia ma に一致する謝名(ぢゃな)と王称地名
 「dzia ma に一致する謝名(ぢゃな)と王称地名

 だがここで注意がいるのは、

 古代の沖縄語の主流は、3母音語で O 音がないはずなのに、

 このヨナを表現する漢字の徐も与も O 音をもっている事実である。

 その理由はイオニアのパーリ語訛り「ヨーナ」が、

 この島名のヨナの語源で、

 パーリ語には O 音 があるから、

 その名残をとどめているからなのであり、

 命名の後に沖縄の住民の主流がマレー語系の人々に変化したため、

 3母音語が中央語になったことがわかる。

 カールグレンが気づいた

 邪の dzio と dzia の2音は、まさにこの時代変化に一致する。

 とすると、 O 音を失った地名が他にもある可能性があるということになる。

 dzia に相当する地名が沖縄にもないか探してみると、

 最も近いのは謝名(ヂャナ)で、

 国頭(くにかみ)郡の今帰仁(なきじん)村にあるし、

 謝名城(ヂャナシロ・ヂャナグスク)も

 国頭郡の大宜味(おおぎみ)村にある。

 この大宜味(おおぎみ)も国頭(くにがみ)という郡名も

 「大君=王」「国頭=首都」を意味する地名である。

 またこの地域の最高峰である与那覇岳の名は、

 ヂャナとヨナ=イオニアが元は1つだったことを証明しているから、

 すでにここに邪の字の dzio と dzia の2音の分裂が見られるが、それだけではない。

 拗音のない鹿児島語の特徴をもった地名もある。

 慶良間列島の座間味(ざまみ)島がそれで、このザマは一見して鹿児島語タイプ。

 ヂャマとは僅かな方言差しかない。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月18日水曜日

マレー語に関する章(63)九州に実在した「数を国名にした国々」



 《九州に実在した「数を国名にした国々」
 「九州に実在した「数を国名にした国々」

 ここでついでに記憶しておいて戴きたいのは、

 沖縄語はマレー語系だから3母音語なのであるが、

 そのマレー語で「1」を意味する「サツ」が国名の「壹」に取って変わって

 壹国(マ)→「薩摩(マ)」という国名になったのも、

 さきにお話しした8世紀の薩末(マ)比売の時代からで、

 その証拠に、ご覧のとおり薩摩という文字も、

 当時はまだ完成せず薩末(マ)と当て字している。

 だがそれは、

 その地域が壹国、

 すなわち壹與と伊支馬を首班とする邪馬壹国だったことの、

 生きた証拠なのだということである。

 では壹国とはどんな意味をもった国名だつたのか?。

 実は古代九州には数を国名にした国々が完備していたのである。

 挙げてみよう。

 一国 伊支馬・壹国

 二国 日本

 三国 三瀦(づま)=三津国(福岡県)

 四国 斯馬

 五国 呼邑・五島(長崎県)

 六国 六合=リクアウ→リクウ=琉球・陸奥=ムツも6

 七国 敷根=シッネ(鹿児島県)

 八国 八耶=ハヤ=隼人(鹿児島県)・八幡=ハチマン=八国(マン)の(鹿児島県)

 九国 狗奴・球磨(鹿児島・熊本県)

 十国 重富=ジュウフ(鹿児島県)・投馬=十之国=十島(鹿児島県)

 これらは3世紀より前に沖縄から九州全域に分布して、

 消長があったことがわかる。

 古代九州には、数を国名にした国々が、もう1種類ある。

 10頁のものはイチ・ニ ・サンという中国の数詞だったが、

     こちらはヒ-・フー・ミーという日本式数詞なのだ。

 ヒー 火・日・肥

 フー 不弥・不呼

 ミー 弥奴

 ヨー 与那

 イツ 伊都

 ムー 霧島・武・牟田

 ナー 奴国・那覇・娜・儺

 ヤ  八女・山国

 コー 高麗・甲突川(鹿児島市)・コーツキ=高津王

 トー 投馬=十国=十島
       
 倭人章の中に記録されていない国名があるが、

 それは「もと百余国あったが、

 使訳=使者や通訳、通ぜる=これには「外交関係がある」と「知っている」との

 2つの意味があるが、

 そんな国が「30か国ある」という報告記事があるのだから、

 魏との外交関係のない国が、

 記録に入っている国々以外に、まだ70国あったのであって、

 この数詞の国はその全体に散らばっていたのである。

 それが2千年近く経った今でも確認できるはど完全に揃っていることは、

 それが偶然そう見えるだけなのではなくて、

 本当に実在したことの証言なのである。

 この事実は、3世紀以前の九州の文化が、

 すでに中国の数詞と日本の数詞とを使い分け、

 それに対応する漢字も使いこなしていたことを、

 しっかり立証しているのである。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月17日火曜日

マレー語に関する章(62)帯方郡使は人類学の凄い学識の持ち主



 《帯方郡使は人類学の凄い学識の持ち主
 「帯方郡使は人類学の凄い学識の持ち主

 倭人章は、この夏人と倭人の共通点を見抜いていて、ピタリと指摘してみせている。

 この事実も、魏人のもっていた人種学知識が現代以上に優れていて、

 倭人らの服装、晋観を一見しただけで、

 ぴたりとそのルーツを見抜いてしまったのである。

 だから帯方群使らの学識の高さは、

 この一事だけでも身にしみてわかるはずである。

 彼等は、現在の日本の人類学者でも気付かなかった関連を、

 即座に指摘できるだけの学識を身につけてもいたのである。

 だから当時の中国人が、

 当時としては遥かな辺地だった日本列島人のルーツや東都を、

 今の私たちが考えもしない黒歯国などまで細かに同族と認めて、

 わざわざ記入するほどに熟知していたという事実を、

 改めてしっかり確認しておく必要がある。

 ついでにここで、黒歯国は本当に倭人と同種だったのか?みてみよう。

 歯の黒い人々は、現在も台湾以南の各国で沢山みることができる。

 それは一種の嗜好風習の結果である。

 コショウ科のキンマの葉で、ビロウ椰子の実と石灰を包んで噛む習慣のため、

 歯が真っ黒に染まるのである。

 その主流はインドネシア系の人々で、

 日本語の主流もマレー語だし、

 黒い歯のを美として喜ぶ奇妙な風習は、

 「お歯黒」として今でも映画の時代劇などでみることがあるし、

 お歯黒をした人は昭和初期まで残っていた。

 これが答えである。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月16日月曜日

マレー語に関する章(61)日本語の中に千語以上のパーリ語がある



 《日本語の中に千語以上のパーリ語がある
 「日本語の中に千語以上のパーリ語がある

 標準語のウオ(魚)という発音は鹿児島生まれだと説明したが、

 その鹿児島には<魚>を<イオ>と発音する人々がいる。

 また沖縄では<イユ>と発音する。

 これまでは、これは単に<ウォ>という本州語発音が訛った方言だと思われていたが、

 事実はそんなに単純ではなかったのである。

 沖縄県の最も西の端は<与那国島>である。この島の「ヨナ」という変わった名前は、

 卑弥呼政権の祭政一致の国家宗教、

 当時の帯方郡使が「鬼道」と呼んだ仏教の用語パーリ語で

 ギリシャを意味する名詞「ヨナ」だったことがわかっている。

 この<ヨナ>は、古代ギリシャの一地方だった「イオニヤ」の訛ったもので、

 <イオニヤ>の語源は「イオン」すなわち「行く・遠征する」という言葉だから、

 「イオニヤ」とは「遠征によって取った地方」または「遠征隊の国」を意味していた。

 だから<与那国>という名も、

 この「遠征隊の国」というギリシャ語が「イオニヤ」と発音されていたものを、

 沖縄へ<仏教>を広めにやってきた<アシャカ仏教宣布団>の宣教師たちが、

 パーリ語訛りで<ヨナ国>と呼んだので、

 <与那国>という当て字が現在まで残ったのだとわかっている。

 こうした事実はすでに市販されている私の著書に詳しく解説済みなので、

 もっと許しく知りたい方はそれらをお読み戴きたい。

 この<ヨナ>は、沖縄語では「ユナ」と発音される。

 これは東南アジアでも同じ地域が多いから、

 マレー語圏やミャンマーではギリシャ人を「ユナン」とか「ユナニー」と呼んでいる。

 これに中国人が当て字したものが「雲南=ユンナン」という省の名として残っているので、

 <与那国>の名は何も特別なものではないことがわかるのである。

 それ以上に重要なのは、<与那国>の本来の国名が、

 「イオン=行く」だったことである。

 この<イク>という発音と、

 この島の王の名の発音が一致すれば、それは「名乗り」だとわかる。

 それが実在している。

 卑弥呼政権を倒した<狗奴国男王>は、

 <山上王・位宮>という名乗りを持っているが、

 この<位宮>は「イク」とも読めるので、

 「イク」という発音につけた当て字とみても不合理ではない。

 彼は、卑弥呼の跡をついで女王になった<壹與>を<与那原>で即位させている。

 彼が<与那国王>だったのなら、それはごく当然のことだったとわかる。

 「与那原=イオニヤの都」だからだ。

 これで当時の沖縄地方には沖縄語のほかにギリシャ語と日本語、

 パーリ語などがあったことがわかる。

 この内パーリ語は今の日本語と比較しても、

 共通語が軽く1300語以上もあるから、

 日本語の中核になった言語だとわかる。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月15日日曜日

マレー語に関する章(60)2種類あった五彩圏とその判別



 《2種類あった五彩圏とその判別
 「2種類あった五彩圏とその判別

 しかしこれで、五彩圏思考が仏教と無関係だったと考えるのは早計である。

 それはマガダ国を中心に、五彩圏が実在していたことが明らかだからである。

 今のミャンマーは古来、ビルマと呼ばれてきたが、このビルはインド~アーリヤ語では、

 青色のことで、英語のブルーからマレー語のブラウまで完全に方言関係にある。

 青はいうまでもなく青竜の色で東を指し、ビルマはマガダ国の東にある。

 同じインド~アーリヤ語では黒はカラで、

 北にはカザフ共和国の大都市カラガンダはじめ、

 インドと蒙古の双方にカラコルム、

 その中間の中国西域にカラマイという地名が並んでいる。

 これと対象の位置にある南は、

 アショカ仏教史でも有名なスリランカで、

 ここから移動した人々が

 1世紀にインドネシアに植民した中心がシュリビジャヤ。

 そこからさらに東に移ったという地名をもつのが、

 沖縄の首都シュリ=首里である。

 そして日本では赤色をシュ=朱というから、

 それらはみな南=朱雀としてつけられた地名だったのである。

 これで納得がいくように、

 アショカ仏教圏は五彩圏を伴っていた。

 ただ注意が必要なのは、

 それは「アオ・クロ・アカ・シロ」と

 いうギリシャ語ではなかった点である。

 それは日本列島では位宮の五彩圏以後のものである。

 こうした細部を見落とさないように…。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月14日土曜日

マレー語に関する章(59)倭の語源=稲と米の歴史



 《倭の語源=稲と米の歴史
 「倭の語源=稲と米の歴史

 しかし、以上お話ししたことからは、

 さらに深く、それらの文字の歴史もわかる。

 それは発音が教えてくれるのである。

 特産物や代表的製品を、その供給者の名、

 またはその所属する国名や部族名で呼ぶ古代人の原則を

 考えると、

 『禾』の「カ」という発音は「カ人の植物」という意味をもっている。

 すると殷人が当時「カ人」と呼んだのは、

 それ以前にあった最古の王朝「夏」以外にはなく、

 『禾』を「カ」と発音するのは、

 その夏という国が穀物栽培を国の基本にしていた農業国だったから、

 穀物植物を意味する象形文字の『禾』を、

 「夏のカ」という発音で呼んだという以外に、

 まぎらわしくて不便な同音の名を、わざわざつけた理由は考えられない。

 同じように『稲』も、

 日本で「イネ」と発音するのは「イン=殷の産物」を意味している。

 稲は雑多な禾本科植物の中から、

 殷商時代に主要作物として選ばれ作出された

 その国を象徴する品物という意味である。

 しかし殷の稲は発掘資料によれば「陸稲」ばかりで水稲はない。

 水稲は日本では「コメ」。

 その移動経路を考えると初期の発音は沖縄語の「クミ」で、

 これは久米島の「クメ」と

 同じだから、

 沖縄語がマレー語と大きな共通点をもっていることから類推すると、

 『米=コメ=クメ=クメール』からきた作物と言うことになる。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月13日金曜日

マレー語に関する章(58)『八幡教』が生まれた世界宗教史



 《『八幡教』が生まれた世界宗教史
 「『八幡教』が生まれた世界宗教史

 言葉を変えると、

 ヤマト朝廷の権威の源が『八幡信仰』だったのである。

 全国に3万を超える八幡社があり、

 それが会社のような働きをもつ「社」の

 全国組織を形成し、

 朝廷の名が「八幡徒=ヤマト」と呼ばれてきたのだということが、

 はっきりわかる。

 では八幡とはなにか?…。

 それは「八幡大菩薩」の名が示すように実体は仏教、

 概観は神道の日本独特の宗教だが、

 その実体は次のような歴史が産み落した混血児である。

 ① シュメルでは「山」を崇拝する伝統からジグラット=巨塔を神体とした。
   
   この宗教をバビロンの滅亡後、日本列島へもちこんだのが「カリエン」人たちで、

   彼等が神と、その継承者を「シュメル=スメラ」「王=キ」=「スメラギ」と呼び、
   
   バビロンのアキツゥの祭り(正月)が「秋津島」の語源になって、
   
   神話の古代国名を生んだのである。

 ② シユメルがスメラになったのは、それが日本へくる前にインドに入って「ヒマラヤ」を
   
   「スメラ山」と呼んだからであるが、そこでスメラはさらに多くの方言によって、

   「スベラ」から「スバラ=素晴らしいの語源」「スバ・スワ・シバ・ジマ・ジャマ・ヤマ」

   などと訛り、その主神を「シバ・ヤマ」神とするシンドゥ教の一派「シバ派」になった。


 ③ それより前、バビロンに倒されたシュメル人たちは、中国に入って「周」と呼ばれ、

   殷人の帝国・商を倒して天下を取ったが、以後、「山」を崇拝する伝統が中国各地の

   名山崇拝となり、それを台湾を「ホーライ=ギリシャ神話の季節の女神」と呼ぶ

   ギリシャ系中国人・徐福らの「方士」が受け継いで「道教」の体系をととのえた。

 ④ これが秦の始皇帝のとき、徐福が日本に「ヤマ教」としてもちこんだもので、

   それは本来「オリンパス山」を神の住いとするギリシャ宗教につながる山岳宗教だから

   「ヤマ」で、種子ガ島・南種子町の「広田海岸遺跡」から発見された「貝製装身具」に

   漢字の「山」と、ギリシャ文字の「アイ・クマ」とが書かれているのは、

   このためなのである。

 ⑤ この地域には、さらに古くからインド語や、マレー語を話す人々が定住していたし、

   往来していた。

   それは土器などの共通性と貝製腕輪などの出土品、それに今も大量に日本語の中に

   残っているマレー語やパーリ語やヒンドスタニーの単語が証拠であるし、
  
  『記・紀』の神名や人名もまた動かない証拠群をかたちづくっている。


 ⑥ こうしたものが相互に影響し合って次第に融合したものに、卑弥呼当時に最大勢力に

   発展し君臨したのがアショカ仏教で、その後をこの「八幡教」が継いだことが、

  『魏書倭人章』の卑弥呼・壹與と、『記・紀』の[神功皇后紀]から複元できる。

 ⑦ 「ヤマン」に対する当て字が「八幡」で、これを「ヤバーナ」と発音したものが、

   中国から西の広いアジア全域で「ギリシャ人」を指す固有名詞として使われてきたのである。

 ⑧ しかし「八幡」は『大隈正八幡の縁起』に登場する八幡=応神天皇と、

   天皇に位を譲った先代の八幡がいて、それが二つの「倭」を生んで、

   日本の建国史を非常に複雑にしているから、

   この『倭』を主役にした講義は、その締括りとして、

   この問題を解明せずに通過することはできない。

   なぜなら『古事記』の[神功皇后記]に応神天皇が「イザサ=伊奢狭・和気大神」と

   名前を取り替えたという話しが載っているからである。

 次回にそれ解明しよう。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月12日木曜日

マレー語に関する章(57)「百済」は移動につれて発音が変わった



 《「百済」は移動につれて発音が変わった
 「「百済」は移動につれて発音が変わった

 その経済力が作り出したものが、

 大阪府だけにある世界一巨大な墓=巨大古墳群なのである。

 それを作ったのが『三国史記』[百済本紀]にある

 21代・蓋鹵(コウロ)王なのだ。

  (『誰が巨大古墳を作ったのか』参照)。

 彼はその時代と「蓋」の発音からみて、

 倭の五王の一人・「興」であり、

 その行為からみて「河内」に土師器生産の大工業地帯の本拠を築き、

 河内に祖先のために巨大古墳を建設した「コウ国」の王で、

 朝鮮語では「鹵(口)」は「ノ」と発音するから「コウ・の」王だし、

 沖縄式古文なら「コウ・津」と書くから「高津」王であって、

 大阪市に「高津宮」を残した天皇だった。

 倭王・興は倭王・武の兄だから、

 雄略大皇の兄の安康天皇に当たり、義理の息子に殺されるが、

 これは[百済本紀]の蓋鹵王の最後も同じである。

 これで朝群半島で書かれた[百済本紀]の「百済」が、

 半島だけの小国・百済だけではないことが、

 はつきりおわかりになったと思う。

 しかし倭王・武当時でも中国政府は大阪にあった百済本国を認めようとはしなかった。

 より近い小国・百済との外交量が多くて優先していたから、

 同じ文字をもった大国が別にあるとは信じられなかったのである。

 だが大阪のほうは半島読みのパクチェではなかった。

 「百=モ、済=ズミ」だったのである。

 なぜそれがわかるか?…。

 それは世界最大の墓・仁徳天皇陵とされる

 大仙陵がある地域にその名が残っているからである。

 それは「百舌鳥耳原=モズミ原」なのである。

 「原」は「ワラ=倭国」で、

 天照大神の「高天原」でわかるように「倭国政府の所在地」である。

 だから「モズミ原」とは「百済倭国の首都」という意味。

 倭王・興は首都に巨大古墳を築いて、

 その繁栄を誇ったのだ。

 ところが大阪市南部には「クダラ」と発音する地域が残っている。

 これは朝鮮半島の百済が新羅に滅ばされた時の難民が住んだ跡で、

 文字は同じでも全く別物なのである。

 だから区別するために「馬韓」をマレー語の「馬=クダ」と

 国を意味する「ラ」とでクダラと発音したのである。

 同じ発音変化は奈良県でも起こっているが、

 こちらは発音に重点があり、別の当て字が残った。

 倭迹迹日百襲姫の墓だとされている

 桜井市箸中にある箸墓古墳は「ハシ」という名で呼ばれている。

 ハシも先に見たとおり、隣接する初瀬(ハセ=大隅語)と同じく

 「百済」という文字を沖縄語で発音したものである。

 こちらは堺の住民と違い、

 沖縄~大隅糸の人々が命名者で、人と時代とが別だったのだ。

 だからこの「箸」は単なる当て字にすぎす、

 「姫が箸で陰を突いたから箸墓というのだ」というのは、

 その発音に何か「いわれ」をつけようとして考えだした

 下品な思いつきに過ぎない。

 だから埋葬者は卑弥呼ではない。

 倭王・武が高市と初瀬・長谷を新たに領土に加えた際に死んだ、

 武の一族の誰かの墓にすぎない。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月11日水曜日

マレー語に関する章(56)『倭』連邦の国名の由来と位置3世紀



 《『倭』連邦の国名の由来と位置3世紀
 「『倭』連邦の国名の由来と位置3世紀


 数詞     発音 当て字 言語  『魏書倭人章』 在った場所(発音の変化)

 一の国  ヒ の国 日の国 薩摩語        鹿児島県

 一の国  イチ 国 壹 国 魏語   邪馬壹国  隼人町浜之市

 一の国  イティ国 一大国 魏語   一大国   長埼県壱岐

 一の国  サツ マ 薩 摩 マレー語       鹿児島県西部

 一の国  ウノ 国 呉の国 大隅帯  烏奴国   鹿児島市小野

 一五国  インゴ国 肥 後 薩摩語  為吾国   熊本県(インゴ~ヒゴ)

 二 国  フタ ラ 普陀落 沖縄語        百済

 二三国  フーミ国     魏語   不弥国   久留米市(フーミ~クーメ)

 二九国  フコ 国 日 向 大隅語  不呼国   宮崎県(ピューグア)

 三の国  ミノ 国 三 納 大隅語  弥奴国   宮崎県児湯郡三納

 四の国  ヨーナ国 与那国 パーリ語       沖縄県与那国島

 四の国  シーの国 日の国 大隅語        鹿児島県

 四の国  シマ マ 島 間 沖縄語  斯馬国   種子島南種子町

 五の国  イツ 国 五津国 沖縄語  伊都国   佐賀県牛津(ゴツ~ウシヅ)

 五三国  イザ 国 伊佐郡 薩摩語  伊邪国   鹿児島県伊佐郡

 六の国  リク 国 六 合 呉語         沖縄県と台湾(琉球国)

 七の国  ナーツ  那之津 沖縄語  奴 国   福岡市娜の津

 七八国  ナハ 国 那 覇 沖縄語  奴 国   沖縄県那覇市

 八の国  ハイ 国 針 持 パーリ語 巴利国   鹿児島県大口市

 八の国  ヤ  マ 山 野 薩摩語  邪馬国   鹿児島県伊佐郡山野

 九の国  クヌ 国     マレー語 狗奴国   鹿児島県熊毛郡

 九五国  コユ 国 児 湯 薩摩語  呼邑国   宮崎県児湯郡

 九五国  クイノ国 粟 野 大隅語  鬼奴国   鹿児島県栗野町

 九八国 クジャ韓国 巨済島 魏語   狗邪韓国  韓国慶尚南道

 十の国  トオ マ 十 島 薩摩語  投島国   鹿児島県十島村

 十の国  ジュンジ 十文字 大隈語  都支国   鹿児島県加治木町

 十の国  ソノ 国 襲の国 古 語  蘇奴国   鹿児島県大隈半島

 五百国  イバチ  葦 北 沖縄語  已百支国  熊本県芦北郡(イホキ)

 千の国  チノ 国 天・震丹沖縄語  姐奴国   沖縄~種子島

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月10日火曜日

マレー語に関する章(55)思考整理のシステム



 《思考整理のシステム
 「思考整理のシステム

    例題 百済 (なぜクダラと発音するのか?…その歴史)をサムプルに

 国名の語源 ポ=百 ヒイ=済 ドン=殿 (の治める国)=海神国=南西諸島

 その位置  古語のポはホ=百・豊・穂・火・日   (ワタツミ=倭辰巳)

       ホ=沖縄発音ではフ=布・富・不・夫・扶 セイ=シ・ジ=施・士

 関連名詞  百襲姫・豊玉姫・狭穂姫・穂穂=火火出見・日向・日本
 
       布施・富士・不二・藤・豊日・夫子・夫余・扶余

       クダラ=クダ=マレー語の「馬」=馬毛島(マケド・ニア)=種子ガ島
 
       馬毛=馬ケ=馬ノ=馬津=マツ=松・末=松元・松尾・末盧国

       馬ガ国=マガラ=馬韓=バカン=馬関=クダカン=下関・下松

       マガラ=マガダ=マガタ=曲田・曲玉=マカダ=目加田

 天皇名   橘豊日(用明天皇) 橘=多遅馬那=種子島国=但馬国・丹波国

       天萬豊日(孝徳天皇) 天萬=天国=チヌ国(大阪)・大天国(沖縄)

       天萬=天満=大阪=三大天満宮=大阪・京都・福岡=天神=孝徳

 推理    南西諸島から出た百済は卑弥呼政権の打倒後、東に移動して倭国になり

       百済倭国(フジワラ=藤原氏)に、朝鮮半島へ逃げた者は半島百済になった。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月8日日曜日

マレー語に関する章(54)長柄・名古屋・駿河も仏教地名



 《長柄・名古屋・駿河も仏教地名
 「長柄・名古屋・駿河も仏教地名

 卑弥呼から仏教を国教として受け継いだ「倭国」が、

 7世紀まで続いて天智天皇に滅ぼされたことは、

 私(加治木義博)の

 『虚構の大化改新…』と『謎の天孫降臨…』などで読み返していただきたいが、

 長柄の宮の「ナガラ」と同じ地名は

 タイ国中部のナコン・サワーン州

 「ナゴール=Nagor」の

 古名「ナガラ・スヴァルガ=Nagara・Svarga」と同じである。

 また「Nagor」も英語読みでは「ナゴーア」で、
 
 倭国の残党が作った国の「尾張=オワリ=ウワイ」の

 首郁「名古屋」がこれに対する当て字だとわかる。

 「Svarga」はタイ語だが

 マレー語では「Surga=スルガ=駿河」になる。

 これは「天・天国・天界…」などを意味する

 インド・サンスクリット語

 「Shorga=ショルガ」という仏教用語が語源である。

 これで現在の世界で、

 国教が仏教である唯一の国・タイに、

 なぜ日本と同じ地名が次々に残っているのか、

 少しも不思議ではなくなった。

 卑弥呼の「ウワイ=倭」と同じソナカ仏教圏だったからである。

 すると同時になぜ、

 『魏書倭人章』の謎解きは、7世紀の「壬申の乱」以後まで、

 解明できないと不可能か…ということも、

 おわかりいただけたと思う。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

マレー語に関する章(53)明確に断定できる「卑弥呼のいた場所」



 《明確に断定できる「卑弥呼のいた場所」
 「明確に断定できる「卑弥呼のいた場所」

 以上で、

 倭と鬼道と仏教と五彩圏連邦とが、

 絶対に切り離せないものだったことが、

 よくおわかりいただけたと思う。

 そして連邦以外は壹與の時代にはもう消滅してしまった。
 
 それは「マチ」が「イチ」に変わったように、

 厳密にいえば「鬼道の国=倭国=仏教国」ではなくなって、

 「邪馬神の市=シンドゥ教の都=神道の国」が全く新しく生まれた。

 それを帯方郡使が『邪馬壹国』と記録したのは当然であって、

 間違ってや邪馬「臺」国などという、

 何の根拠も、発音もない国名は、絶対に書かなかったのである。

 かりに邪馬臺という名詞が当時もあったとすれば、それは国名ではなく、

 インド、サンスクリット語の

 「ジャムブ・ディパ=素晴らしい世界・宇宙・土地」という

 形容詞から訛ったもので、

 「伊支馬・壹與・市・一の宮・薩摩(マレー語で1の国)」などという

 名詞はこれからは生まれないから、

 「邪馬壹国」は絶対に無関係、間違いだと断定できるのである。

 これと同じくらいはっきり断定できるものに「卑弥呼のいた場所」もある。

 「耶馬台国はどこか?」といまだにいう者がいるが、

 それは古代隼人の中心地だった

 現在の国分市・上井(ウワイ)である。

 ウワイという地名は全鹿児島県下でもここ以外にはない。

 偉大な歴史をもつ国名への尊敬と恐れが、

 この国宝的文化財地名を手つかずで保存させたのである。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年4月7日土曜日

マレー語に関する章(52)この講座で頭痛のするかたへ



 《この講座で頭痛のするかたへ
 「この講座で頭痛のするかたへ

 これで「ウワイ=倭=アショカ仏教中の女性教=観世音教」が、

 インドから途中を飛ばして

 日本列島に来たのでなく、

 マレー語圏経由で、

 言語とともにやってきたことが、

 一通りご納得がいったと思う。

 それはマレー語が語源だった

 「マチ=死=祭り=鬼道」だけでも十分立証されているが、

 それ以外にも大量の遺物を残しているからである。

 しかしこの講座は論文ではなく教科書だから、

 それらの無数といえる証拠を並べてみても意味はない。

 ただ、あなたはこれまでの話だけでも、

 頭が痛くなっていらっしゃるかも知れない。

 だが、もしそうならそれは、

 この講座を誤解していらっしゃるのである。

 私(加治木義博)はこれまでお話したことを「記憶してほしいとは思わない」。

 ただ、少しずつ「理解して行ってほしい」だけである。

 本当は本一冊に書くほどの量の内容を、

 うんと圧縮して数頁に詰め込んであるのだから、

 小説を読み流し、飛ばし読みするようなものではない。

 それはなぜか?…。

 あなたが、

 この講座と同じ方法で解ける「歴史の謎」をお解きになるさいに、

 これを手本にして、これまで挙げた一つ一つの要点通りに、

 調べ、見つけ、整理して行っていただければ、

 私にできたことが、あなたにも必ずできる。

 その便利なマニュアル・ソフトとして、この講座は作られている。

 ご記憶になる必要などないのである。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状